55.6年ぶりの答え
「練習をするのが上手」と、ドラムを練習する私を見て、当時クラシック音楽系の大学でフリュートを吹いていた叔父が言った言葉だ。
当時は、その言葉の意味が分からなかった。
練習が上手でも本番で出来なければ駄目だ。
その意味でも「練習をするのが、、」という言葉の意味が分からなかったのだ。
もちろん、その事を叔父に聞いて正した事は無い。
現代では、その答えを聞くのだろうが、子供の頃から「答えを誰かに求める・教えて貰う」という生き方はしてこなかった。
その為、10代後半の私にはその事が身に付いており、答えを求めようともしなかった。
だから、未だにその言葉の叔父の答えは知らない。
また、知っても意味が無い。
という事に気付いているので、ある意味で答えに対しての好奇心は薄れていた。
答えは叔父が私を見ての感想なので、その事と私とは何の関係も無い。
でも、この「練習をするのが上手」という言葉は、5~10年に一度くらい頭の中に現れる。
その度に色々考えてみる。
だから、50年以上考えているということになる。
「馬鹿?」
未だにその疑問が頭の中から出て来るから、その都度考えた事が的を得ていないという事なのだろうと解釈している。
話は逸れるが、一人で考えるというのは、そういった副産物、ここでは「それは叔父の見解であって、私そのものとは関係が無い」という考え方の構造、また、「答えが的を得ていない」という問題に対する私自身の浅さか角度の違い他をもたらしてくれるのだ。
もし、これを叔父に正答を求めていたら、きっと記憶の片隅にも残っていなかっただろうと思う。
「自分の力で」というのは、24時間自分のものにしている、という事であり、「今・生きている」という事なのだ。
その言葉が先程頭から出て来た。
途端に「閃いた!」
「練習をするのが上手なのは独学だからだ」。
私は、大方の問題に対して全て一人で、自分だけで考え出すから、問題に対してのアプローチが、学校に行く事で習い慣れしている人とは違うのだ。
この閃きは、我ながら腑に落ちる。
しかし、もちろん、練習を組み立てるのが上手だと意識した事も、考えた事もない。
「そのまま」「その時に」閃いたままにやっているだけだ。
武道でも明鏡塾でも、ワークショップでも同じだ。
武道では動画を沢山撮っている。
それは、自分のやっている事を客観的に確認したいからだ。
DVDも出版社から出ている。
そこで撮られている中には「その時に閃いた事」を、つまり、練習の結果出来た事ではなく、その時、閃いた事を即興でその場でやっている事が多いのだ。
だから、「あの技が出来るのに何年かかりましたか?」と質問されると困る事が多い。
「今、その場で思い付いただけです」が答えだからだ。
今でこそ、そんな事はないが、閃きだけで稽古が進むので、何時も弟子達は右往左往していた。
それが不思議でならなかった。
日常も人生も、即興が生命だからだ。
私自身も、やっと即興の身体、また「身体で考える」事が出来るようになって来たと思える。
それが「武道的身体」なのだ。