全ての肉体パフォーマーにとって、一番大切な要素は「自分自身を客観的に眺める能力」です。
そして「イメージ(目的としての)」や、具体的身体運動としてのイメージ、そして、空想としてのイメージを創る能力、それらを取り込む能力も重要な要素です。
肉体そのものの動き一つをとっても、「イメージ化された肉体運動」と「振り付けとしての肉体運動(運動の順番を追いかけている運動)」は全く質的に違うものです。
あなたが動いているのか、あなたが振り付けを動いているのか、イメージがあなたを動かしているのか。
そして、あなたが「表現」を創りだしているのか、あなたがあなたを対象化し、対象化されたあなたを「表現材料」として創りだしているのか。
少し複雑なことを書きましたが、要は、自分が自分勝手に熱中し「表現だと思い込んでいる」のか、自分を客観的にとらえ「表現されているかどうかを見極めている」と考えるのかの違いだと思って下さい。
もちろんこれ等は肉体表現に限らず表現に付随するセリフも同じことです。

「役者」という言葉が有りますが、まさしく「役(イメージ)」になっているのかいないのか、そこが思い込んでいるだけなのか、誰が見ても「役」に見えるのかの違いです。
テレビでドラマをしています。
映画、舞台様々なところで「役者」と名乗る人たちがいますが、一握りの人たちを除いて、大方は「その人」そのものであって、つまり、小学生の学芸会のレベルであって、役者では有りません。
どう見ていても、俳優を名乗っているその人以上は見えてこない、つまり、その人が演じている「役(イメージ)」は見えてこないという事です。
役を演じようとしている意志すらも見えてきません。
つまり、「演じるとはどういう事か」という事を知らないということです。
それが「思い込み」の典型です。

話を変えて例えば、「美しい動き」とはどんな動きでしょう。
バレエのシルヴィ・ギエムの動き、坂東玉三郎の動き等といった、美を直接表現する人にしか美しい動きはないのでしょうか?
小沢征爾の指揮、ヨー・ヨーマーの演奏、匠と呼ばれる人の手さばき、一流の料理人の作業、その他考えられないくらいのジャンルで「美しい動き」を目にすることが出来ます。

では、私達は一体何を見て「美しい」と言っているのでしょう?
ここの捉え方、そこにトレーニングの間違いが現れてくるのです。
つまり、見た目で、そして、その見た目の具体的身体現象、例えば、足が人より上がっている、ターンがきれい、身体が柔らかい、といった事だけをさして「美しい」と回路が間違ってしまうのです。
もしも、そう間違う人であれば、その人は表現には向いていませんから、即刻他の職業を見つけるべきです。
例えば、小沢征爾は“美しく見える指揮”をしようとして指揮をしているでしょうか?一流の料理人は、同じく“美しく見える包丁捌き”を目指して料理人になったでしょうか?
つまり、小沢征爾は“音楽を伝える”事を目的としているし、一流の料理人は“おいしい料理”を目指している、その結果、具体的作業を行った結果として“誰の目にも美しいと見えた”という事です。

バレエのシルヴィ・ギエムの何が?となれば、ギエムの持つ感性がイメージを創り上げ、それが内的欲求としてあり、イメージを具体的肉体運動として表現しようとした時、現在のギエムの肉体運動が、つまり、足が人よりも良く上がるだの、身体が柔らかいだのがあるのであって、足を上げる事を、また、身体の柔らかさを目的として追究したのではない、という事です。
したがって、感性が欲求したイメージ化された肉体と動きが、私達に「素晴らしい」と感動を与えてくれるのです。
ですから、そのイメージが見えなければ意味がないという事になります。

そして、そのギエムの作業の中で大切なことがもう一つあります。
それは、自分自身を演出している(自己を客観的に捉え、自分自身が結果として表現した一つ一つの動きや、全体の動きをコントロールしている)という事です。
彼女の舞台を初めて見た時、目が点になりました。
釘付けになってしまったのです。
それは、舞台に登場して一分か二分かした時、彼女がまるで映画の画面の中のように舞台から消え去るように見え、それから数分後今度は逆に、その消え去ったかのような状態からクローズアップされたのです(この精神技術が、紛れもなく日本の伝統武道の技術なのです)。
私は、それを感じた時、頭の中が真っ白になりました。
これほどまで完ぺきに、自分の身体でイメージを表現した、いわゆる舞台パフォーマンスを見たことがありません。
そのギエムに感動し、舞台が終わってからも腰が立たなかったのを思い出します。

つまり、「表現」とは、肉体運動ではなく、「肉体化された意識」であり、それを媒介として表現者の内的「意識・イメージ」を表すもの、という事です。
もちろん、肉体運動は表現の材料として必要不可欠のものです。
だからといって、肉体が動くだけではそれは「体操の域を出ることはない」のです。
まず、「意識の身体化作り」です、一度セミナーを覗いてみて下さい。

Dance

「動いてしまっている=表現塾」
それは、日常の全て、人の通常の行動全てである。
ということは、その動きをリードするのは、目的や欲求、生理的欲求、日常習慣だ。

「武道の動き」と言う特別なものがあるのか。
と考えた時、そこには有るとも言えるし、無いとも言える事が見える。
有る、という場合、刀や徒手空拳で相手を攻撃したり、身を守ったりする。
その現象だけをみれば、それらの動きには日常性は無い。
だから、特別だとも言える。
しかし、それら動きは、自分自身の欲求が動きの動機になっている事を考えると、それは動機ということでは同じなので、特別ではないとも言える。

しかし、武道の動きの全ては、相手に直接作用しなければならない。
つまり、相手を倒すなり、突くなり斬るなりという動きだ。
そこを考えれば、特別だ。
しかし、日常の全ての動作には目的がある。
それがたとえ水を飲む為にコップを持つ事であっても、洗濯機のスイッチを入れる事でも、対象のモノに作用させる。
であれば、特別ではない。

という構造の中で、武道の動きは存在する。
そしてそれは形だ。
形そのものは、決して日常的ではないし、日常に必要ではない。
その形は昔日のものであったり、現代に創られたもの等多種多様だ。

そこで、非日常的な特別な武道の形を練習することになる。
ここで問題として上げなければならないのは、「特別な武道の形」という言葉であり、考え方だ。
確かに現代において、武道やその武道を表現する形は特別である。
しかし、問題はそんな低次元のことではない。
この言葉やそんな意識が、永久に武道の形と自分自身を切り離してしまう原因だからだ。

そうなるとどうなるか。
そこは火を見るよりも明らかな事がある。
それは、その形を通して相手に作用しなければならない本質、そのこちらの力や制圧力に、蓋をしてしまうのだ。
結論を言えば、自分の中で武道が特別だという意識がある限り、それを行動する時、身体の筋肉は特別だと緊張するのだ。
そして、その特別という意識は形そのものに集中され、「形が武道だ」という混乱が起こり、それが無意識の中に根付いてしまうのだ。
もちろん、武道は特別だと言う意識は、無意識領域に根付いている為、自分の意識では捉えることは出来ない。

さて、ここで日常に戻ってみよう。
幼児の頃から、親や兄弟を含む周りの人達の、動作を見ながら育つ。
その事で、自覚しないまま日常で必要な様々な動作を身に付ける。
もちろん、歩くと言う動作もその内の一つだし、言葉もそうだ。
そして、自分自身の必要や欲求に応じて、あるいは、教えられて動作も行動も身に付け世界を広げて行く。
それらは、自分自身が生きる、また生活する、という点で必要だから身に付いていく。

必要だから身に付く、というのはその通りなのだが、その言葉を支えているのは何なのか、だ。
それは数であり量だ。
量が身に付くという言葉を、実際の事として実現させているのだ。
しかし、もう一度「必要だから」という言葉を考えてみよう。
その必要は、どこからくるのか。
一つは、自分自身の欲求や必然だ。
そして、その一つは、教えられたから、という必要だ。
ということは、「教えられた」という時点では、教えられる者にとって「特別」だった筈だ。
つまり、その時点では「特別」だったことが、量の中で身に付いてしまい、特別ではなくなったのだ。

もう一度日常に戻ってみよう。
幼児の頃から動作や行動を見て育つと書いた。
果たしてそうだろうか。
そうではなく、動作や行動として表現された欲求や必然を見ているのだ。
欲求や必然をどうすれば実現できるか、どんな動作や行動を取れば実現できるのか。
その好奇心が新しく複雑な動作や行動を身に付けさせていくのだ。

では、それを武道の形に当てはめてみよう。
それは形というモノではなく、形は欲求や必然の結果だということだ。
武道としての欲求や必然。
それは、身を守ることである。
その身を守るという言葉には二重の実際がある。
つまり、相手を制圧することで、あるいは相手から逃げる、という実際が、身を守るを実現させているのだ。

ということは、身を守りたい、という欲求や必然がなければならないことになる。
日常での食べたいとか、仕事の中での様々な必然や欲求と同じように。
そして、形は形として捉えるのではなく、常に「身を守る為に」という目的を、頭に置いておかなければならないことが見えてくる。
その目的が形として現しているからだ。
更にそのことが、欲求や必然という内的な自然発生的な要素として溶け込ませるのだ。
そしてまた、その「身を守る為」にが、形の必然や形の要素の必然を、自身が必然として受け止め、形が形ではなく、自分自身の身に付いていくのだ。

では、その武道をダンス置き換えればどうなるだろう。

ダンスの場合は、構造が少し複雑になる。
つまり、単純明快な目的が存在しないからだ。
それらは、個々の主観に委ねられてしまっているのだ。

そもそもは、武道と同じで、太古の昔にはこれだという形式は存在しなかった。
人と大自然との対峙から全ては始まっている。
大自然の持つ変化に原初の人類は恐れ、あるいは喜びという、未だ感情という名も無いものの高ぶりがあった。
それが身体を突き動かすことで、動きが生まれたのだ。
そこに同時発生的に、叫びがあった。
それは現代の乳児の叫びと共通する。
それが声の誕生であり、歌の起源でもある。
それこそ魂の叫びである。
そこにあった動きや叫びは、動物と同種のものだ。
客観的には、そこには種の保存の欲求が内在されてもいたのだ。
つまり、原初のその動きや叫びは、動物達の求愛の儀式と同種のエネルギーがあり、自然的に対象が、大自然から同種の人に対して向けられていたのだ。
当然、声もそうだ。
それらが文明と共に発展し、文化を形成するのに際して、潜在的な根幹に横たわっている。
歌、踊りと名前を付け、発展進化していったのだ。

しかし、問題はそこではない。
問題は現代における、踊りと言うときの振り付けの問題だ。
振り付けをどう消化すれば、振り付けではなくなるのか。
つまり、武道と同じで型ではなくなるのか、特別ではなくなるのか、である。
武道の如く「身を護る」という目的を持てるのか否かだ。
そこでの要素を掘り下げれば、武道の「身を護る」には、明確に他人が存在する。
その他人から身を護る、自分に対して危害を加える他人から身を護るということだ。
と、考えれば、ダンスは「人に観せる」なのだが、そこには明確な動機が無い。

何故見せなければならないのか。
話を飛ばすが、それは、動物の求愛行動を見た時に生じる感情を思い出せばよい。
あるいは、乳児や幼児が母に向かう姿を見た時に生まれている感情を思い出せばよい。
あるいは、動物のそれだ。
もう一段落輪を広げれば、乳児や幼児の動き、動物の動きだ。
また、深い感情が触れ合っている関係もそれだ。

それらは、怒りや悲しみ、喜びとは異質の感覚だと気付くだろう。
その感覚は筆舌尽くし難いものだ。
あえて言えば、幸福感、安心感のようなものだ。
それこそ、人類にもたらされた、最高の感覚だ。
至福の感覚だ。
それを人に伝播させる、というのが現代におけるダンスの意味である。

もちろん、それぞれの民族によって、踊りの意味は異なる。
しかし、それらはクラシックバレエの出現により、ある一方向に価値観を決定されてしまった。
それは、西洋的構造的美だ。
それを美とし、ある意味で我々は洗脳されている。
しかし、それはあくまでも人が人工的に、西洋人の判断として数学として作り出した美である。
それは、美は全て黄金分割で出来ている、という言葉からも理解出来る筈だ。
むろん、バッハの編み出した平均律も同様で、人工的作為的美である。
もちろん、このことと、それらに芸術的価値の有無の話は別だ。
この人工的美には意味がある。
もちろん、キリスト教という宗教的思考が絡んでいるのだ。

話を戻し、振り付け、つまり、ダンスとしての所作や動きと、自分との関係だ。
先ほど、乳児や幼児と母、動物などの例を出した関係だ。
人の深い深いところにある感情が交錯する、関わりあう、触れ合う、そのことが周囲にもたらす影響。
至福の感覚。
それらをよく検証すれば、関係性の持ち方にあることに気付く。
そうだ、関係性こそがダンスの目的であり、要素なのだ。
関係するために言葉がある。
同様に動きがある。
動きとは、非言語コミュニケーションというべきものなのだ。
そこを目指して行くことこそ、現代のダンサー達が目指さなければいけないところなのだ。
小澤征二の言葉「こころが技術を凌駕した時に感動が生まれる」がある。
そのこころこそが表現されるべきものであって、技術を表現するのではないのだ。

という内的なこころが基本としてあり、そして具体的身体ということになる。
振り付けと自分との関係のことだ。
それは「動いてしまっている」でなければならない。
動いてしてしまえば、そこに動かす人間の意識が見えてしまうからだ。
「動かそう」という意識、「こうしなければならない」という意識、「うまくやらなければ」という意識、「間違ったらどうしよう」という意識、「次は何だっけ」という意識、「私は雲よ」という馬鹿げた意識。
つまり、ダンスとは一切関係の無い雑念が、身体に動きに見えてしまうのだ。
そうなると、それしか見えない場合、そしてこころが無い場合は「発表会」ということになる。
もちろん、これらの意識に支配されているということは、そこにはこころが無いということでもある。

そこで、こころはさておき、「動いてしまう」身体とはいかなるものか。
一つは、「武道の身を守る」ということと同じで、動いてしまう具体的目的があること。
相手を掴む、相手を押す、相手に押される等々だ。
もちろん、その事によって何がどうなるのか、が最初に無ければならない。
それは、相手の身体の感触を確かめる、身体の体温を確かめる、身体の微妙な動きを確かめる等々だ。
一つは、身体のバランスを崩すことで「動いてしまう」になる。
もちろん、この二つはリンクしている。
バランスを崩すことで「動いてしまい」それは「相手の身体の感触を確かめる為」であり、それの連続の美しさを見せる為のものだ。
連続されたら美しいのであって、「美しいだろう」と意識するものではない。
このバランスを崩すというのには、 2 つの要素がある。
一つは全体のバランスを崩す。
これは移動するときの手段だ。
そして、一つは、身体内部のバランスを崩す。
これは胸骨を動かしたり、膝を抜いたりということだ。
されにもう一つ、それは身体の部位に緊張を作り、そこを感じ取ること。
そして、それを連続させて行くことだ。
例えば、胸骨操作を前方にすることによって、大胸筋が緊張する。
それの自分の決めた部分を感じ取る。
そして、その緊張している部位を順次緩め、胸骨操作を逆の後ろへと「動いてしまう」という結果にするのだ。
そして、「動いてしまった」結果が振り付けられた動きになれば良いのだ。

これらが、ダンスという実際に対しての、新しい考え方である。

舞台での在り方1

身体の内部、例えば胸骨を前に動かすことで、肩が後ろに残り、腕が下に垂れる、という動きをする。
そこを「見せる」とすると、胸骨を動かしているのだから、当然それは自分として意識されている。
そして、そのことで肩が残り、腕が垂れている、ということを自分が動かしているのだから知っている。
その一連の動きを鏡で確認する。
そして、それを頭の中に映像として記憶する。
その記憶したものと、実際の動きをダブらせる。
単純に言えば、見本をみながら動いているということをする、ということだ。
その時は、身体での胸骨操作や、様々な身体運動は全部忘れる、 ということ。
ひたすら見本を追いかけるということになる。
という一つ。
そして、観客の視線が、胸骨から肩や腕に注がれているのを、体感する。
もしも、観客の視線が、自分の顔にきていると感じたら、絶対に顔を動かさない。
それはそれで良い。
顔を動かさずに、先ほどの一連の動きをする。
そして、より強く一連の動きをすることで、視線を動きに集める。
つまり、ポイントは二つあり、観客の視線が、自分の身体や、動くポイントに注がれているのを、どれだけ強く身体で感じることが出来るかどうかが、身体が観客から見えるかどうか、であり、自意識を見せないか、なのだ。

観客の視線が自分の身体に釘付けになる、ということがあり、それを体感するから、内面が観客と繋がり、そこに感動が生まれるのだ。
もちろん、そこにある条件は、こちらの内面が豊かでなければならないということ。
それがこころの歌であり、感性を持っているである。

舞台での在り方2

例えば、 10 人が集まって歌を合唱する。
歌をうまく歌うという目的ではないから、その時には、自分以外の人の声を明確に聞き分けられるようにする。
同時に、自分の声を人が聞く、ということを忘れてはいけない。
だから、自分の声をハッキリと出しつつ、みんなの声を聞き取る、ということだ。
それは、舞台上での全体の動きや、気配を感じ取る。
そして、全体とコネクトしている、ということの入り口になる。
常に、ポイントになるのは、自分の幼い自意識、つまり、「自分がやっている」という意識や自分勝手な「思い込み」を他人に見られている、ということを如何にクリアしていくかだ。
これを一人で練習する場合、 youtube でも何でもいいから、自分の知っている歌を流し、自分も大きな声を出す。
出ている声をしっかり聞き、自分の声も確認する。
そして、相手の歌に合わせていく、ということで練習は出来る。
それは、私の動きを見ながら、それにしっかり合わせる、という練習と同じだ。
それが、ある意味での「相手の流れに乗る」と同じである。

日野身体理論の中の、身体操作そのものの質を上げる為の練習、そして身体そのものの質を向上させる為の練習として、胸骨操作、両腕回し、ねじれ、縦系の連動、背骨を感じて行く、という基本的なものがある。

例えば、両腕回しをするとする。最初は、胸骨を使うことで、両手が振り回される。
つまり、胸骨操作と両腕が動くのを意識的に繋げる、という目的。
また、両腕が振り回される事で、腕の重さを感じ取れるようになる、という二つの目的があるのだ。

そして、縦系の連動を使って、両腕が振り回されるを試してみる。
もちろん、目的は縦系の連動と、腕が振り回されるのを意識的に繋げるのと、腕の重さを感じ取れるのは、そこに含まれる。
というように、運動そのものが変っても、この場合は「腕の重さを感じ取れる」は共通させるのだ。
つまり、ここでの大きな目的を「腕の重さを感じ取る」にする、ということなのだ。

また、武道の型、振り付けなども、胸骨操作だけを主要な目的として行ったり、縦系の連動だけで行ったり、あるいは、ねじれということを頭においておこなったりしなければいけない。
この場合は、同じ型でも、それを動かす動機が違えば、型のニュアンスが変わるということを実感する目的も入る。

そして、武道としての型、ダンスとしての型、という本番を想定した稽古も常に行う必要がある。
そこで、必要な能力というのは、幻の舞台を設定出来る事である。
それは、カーネギーホールやパリオペラ座のような大舞台で有る方が良い。
また、歌舞伎の舞台、能の舞台のような、芸達者な人達と並んで踊るような設定も良い。
そういった事が出来なければ、舞台を幻想化する力が身に付かない。
いくら本番の舞台を沢山こなしていても、それ以上の、つまり、幻の舞台をイメージ出来なければ、その舞台はただの空間でしかない。
観客から見れば、そこに幻や夢を見ることが出来ないということだ。

また、自分の動きに対して、観客の視線はどちらか来ているのか、そして、自分のどこを見ているのか。
それを身体で感知出来なければいけない。
つまり、舞台に上がるとは、恐ろしいほどの客観的視点が必要なのだ。
したがって、自分が段取りを追いかけていたり、自分の幼い自意識である「上手く出来なかったらどうしよう」とか「間違ったらどうしよう」というような、意識がある限り、そこをクリアすることは出来ない。
全く違う意味で、「舞台が怖い」であり「舞台は楽しい」と、身体の底から沸き上がって来なければ、全ては嘘だ。
同時に、自分自身が舞台に上がれる力があるのか、無いのかを自己判定出来ないということだ。永久に、自分本位の主観でしか、自分や舞台を捉える事が出来ないからだ。

しかし、基本的な個人稽古として、例えば、腕回しを毎日千回、あるいは、一万回、とやらなければいけない。
そうすることで、身体の端々の筋肉が収縮するようになり、柔らかく強靭で退化しにくい筋肉に身体が変化するのだ。
つまり、身体そのものの質的成長も、パフォーマーにとって必要不可欠な義務である。
舞台に上がる人と、観客とは完全に差別化されていなければならない。
それは、良い悪いの関係なく、観客は何に対してお金を払っているのか、ということの自覚と関係する。
例えば、大衆演劇の役者は臭い。
しかし、それが悪いのではなく、そうすることが、その観客に対しての観せる、であり、観客も満足するからだ。
その大衆演劇の臭さは、非日常である。
だから、観客はそこに足を運ぶのであって、舞台に日常の隣にいそうな人をわざわざお金を払って、観にいくことも無い。
という当たり前の事を考えた時、日常では見られない身体を持っている、ということ自身が、価値を持つのである。
ただ、これには時間がかかる。
日々の鍛錬だけが答えを出してくれるからだ。
「出来た、出来ない」という考え方では、残念ながら特別な身体を作り出すことは出来ない。
プロの身体とアマチュアの身体という差は、開いたままだ。
プロとは何なのか、もちろん、それを生業としている人はプロだ。
しかし、そういった事実、現実の話ではない。
概念として「プロとは何か」という問題を持っているのか、いないのか、という問題だ。
もしも、自分をプロだと決めるなら、何をすべきかを徹底的に考える必要がある。
その内の一つが、新しい身体の創造と身体操作の質の高さである。

話は逸れたが、もしも、腕回しを続けるとすると、上記した腕の「重さを感じる」や、繋げるということは、自動的にやれるようになっている。
ただ自動的にやれていることだから、意識的なものではない。
したがって、改めて自覚的に繋がっているのを確認する必要はある。

この例の、腕回しをやり続ける、ということのもう一つの意味は、やり続ける事で最初に感じ取ったものと、 1 年後 3 年後と時間が経過した場合、全く異なった感じ取りが出来るようになっている事を、実感できるからだ。
それは、同じ事をやり続けているという基本があるから、自分自身の身体そのものの成長、そして、感じ取る能力の成長、気付く為の成長などを、身体そのもので出来るようになる、ということだ。
つまり、これらの継続的稽古は、正解を求める作業ではなく、身体感性をどこまで成長させる事が出来るか、という自分自身に対する挑戦なのだ。
そして続けること、続けられること自体が、プロとしての自覚の表れでもある。

数人で合唱し、その時のそれぞれの声を聞き分ける

この稽古は、声を聞き分けようと集中すればする程、身体全体で聞くようになっていく。
その、身体全体で聞いている感じを掴むという稽古である。
身体全体で他者の声を判別するように、共演者の動きそのものを身体全体で感じ取るということに繋がる。
針が一本落ちた音を聞き分ける集中された身体。
それが他者と共演出来る、心理状態、身体状態である。
その集中された身体だから、横で動く共演者を感じ取り、その流れを裏切ったり、同調したりと、自由にコントラストを演出できるのである。
つまり、この稽古は本番にとって一番大切な感覚を磨く稽古だと言って差し支えない。

二人が向かい合い、片側がリーダーで歌を歌う

その歌を、先ほどの身体全体で聞く状態を作り聞く。
そして、リーダーの歌に入り込む。
相手の気分の起伏(呼吸)に完全に乗ったら、それを崩さずに動作を起こす。
そうすると、相手は転がる。
この稽古は、ある一つの集中状態から、新たな動きをする時、意識が動く。
そのことをどれだけ平坦な状態で出来るか、の稽古だ。
その事で、動き全体が均一になる。
それは、観客から見た時、意識のブレが見えないので、身体がクリアに見える事に繋がる。

つまり、この二つは、絶対に切り離せないものだということである。

という具合に、基本的能力とその応用能力という稽古方法が、最も重要な方法である。

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