「武」の存在意味。
そして「武」が鍛えるべきもの
「武」についての本質的な所を、過去に雑誌「秘伝」に掲載しました。ここでは「秘伝」の読者では無い人の為に一部変更して紹介しています。
「武学」はオランダにあった
先月号で紹介した、35ヵ国から700人余り集まった武神館宗家初見良昭師のオランダ大会。
私は大会終了後、要人警護のスペシャリストや各国の軍隊警官などを教育しているモーガンさんに連れられ、現地の武神館道場を見学した。 その練習内容を見て、日本に失われた武術そのものがそこにあったことに驚いた(一部内容は先月号コラムで紹介した)。
中でも秀逸の稽古は、小学生低学年の子供たちが立っているところに、大人のインストラクターが子供に危害を加えに近付いてくる。
小学生たちが自分の身の危険を感じたとき、全身を振り絞り「ストップ!」と大声を張り上げる。
インストラクターは、その「気迫」にたじろぎ動きを止める、というものだ。
これこそが「正面向かい合い」だ(筆者著「武学入門」で紹介)。
「武」の原点であり、人間関係の基本を作る訓練がここにあった。
この訓練法は、私が武術のエッセンスから取り出し、一般者向けに行なっている「武禅」というセミナーの一カリキュラムと同じだったから驚いたのだ。
もちろん、この練習方法は、私自身が編み出した唯一のものだとは思ってはいないが、日本から遠く離れたオランダでお目にかかるとは思っても見なかった、という驚きだ。
オランダで行なっていた練習は、子供が対象だから「声量」と「気迫」をメインに行なっており、私の言う「声を届かせる(意識を相手に反応させる)」そのものではないが、結果としてそこにも辿り着く可能性のある練習である。
(人の仕組として、意識【感情を基本とした】が相手に届けば行動は変化する、があり、意識が届かなければ変化しない、 つまり、ここで言えば、子供たちの意識がインストラクターに届けば行動が止まる、ということだ。)
何故、そういえるかといえば、相手に対して正面から声をぶつけない限り、相手の行動が変化することはないのだ。
意識がお互いに感応するので、感応が肉体的運動に変換され行動が変化するのだ。
この場合でいえば、相手がひるんだり行動を停止したり、ということだ。
その「正面(意識が正面を取っている)」から、というところが「声を届ける」に繋がる必要最低条件だからだ。
つまり、日本の伝統的な「気合い術」につなげるための最低条件であり、「武」の原点をここオランダの地で行なっていたのだ。
子供たちが繰り返す練習を見ていて、ボディガードのスペシャリストである女性の先生が見本を見せた。
それは、相手に今にも飛びかかり噛殺さんばかりの迫力のある「気合い」だ。
ライオンやチーターといった動物が、今、正に獲物に飛びかかろうとする気迫だ。
ここの子供たちは、紛れもなく「本物」の「武」を見て感じ育っていることをうらやましくも悔しくも思った。
日本でも武術の色々なジャンルで「気合い」を掛ける、又は出す、は存在するが、現代剣道のごとく「奇声を発する」や「ただ大声を出す(しかし、大声も出せない人達が武術に取り組んでいる不思議もある)」といった、殆どが本質とは全く異なった方向に進んでおり(自己満足であり、自己に対して出している場合が殆ど)、「相手との関係性」など全く無縁のところに有るのが現状だ。
「武学」ということで補足をすれば、これが出来ないかぎり人とのコミュニケーションが成立しない、つまり、相手が自分を受け入れてはくれない、自分そのものが相手に届くことはないし、それが出来ないかぎり逆に、口先だけの人間を見抜けないという、人が社会生活をする上で絶対必要な能力である。
「武」という強さは
「武」である最低条件は、「強さ」にある。
そんなことは、小学生でも知っていることだろうし、まして何らかの武術に取り組んでいる人達は百も承知のことだろうし、それが目的でもある。
しかし、それをあえて問題として提出したのは、現在日本に存在する武術には「強さの定義」が曖昧であり、武術そのものの目的が余りにも本来の武術とは遠く離れたところにあるからだ。
敗戦後、日本の武術はアメリカGHQによって禁止された。
しかし、日本から「武」が無くなるのを恐れた心ある武術家達は、その中をくぐり抜けて存続させた。
しかし、くぐり抜けた武術であっても、ここでいう「気迫」の表れとしての「気合い」を禁止された。
「武」禁止の理由は誰にでも分かるだろう。
アメリカは、いや世界は開国百年来日本人を恐れていたからであるし、その恐れの根源は日本人の中に流れる精神にあるからだ。
だから、日本人の精神的支柱の一つである「武」を禁止したのだ。
つまり、まるで敗戦直後の骨抜きの「武」が現実だからだ。
現代は、江戸時代後期のように「武」そのものが実用的価値はなく、活用する現場がないところから、武の本質である「強さ」を抜いてしまった分けの分らない「技(技術論) 」が花を咲かせている時代だ。
いわば、「技のための技」「道場稽古のための稽古」だ。
井伊大老暗殺の桜田門事件の時、指が沢山落ちていたという。
つまり、その時代も「強さ」を抜いた剣術が花開いていたということだ。
「精神的な強さ」が育っていなかったから、実際に現場に直面したとき、パニック状態になり夢中で突進するのみで剣「術」など役に立たなかったのだ。 だから、指が沢山落ちていたということだ。
つまり、「武」に取り組んでいる、という大前提からどういった「強さ」が「武」の言う強さなのか、本当に私(筆者)は「武」に取り組んでいるのだろうか? といったところに、今回のオランダ旅行は改めて気付かされたから、基本的な問題を洗い直し自分自身で取り組みしなおそうと考えたのだ。
冒頭で書いた、オランダの子供たちの「武」の稽古と日本の子供たちの稽古の違いは、「気迫」と「現実感」の有る無しの違いにあり、結果として大きな差に表れている。
オランダの子供たちからは「強さ」を感じさせられた。
別段、突きや蹴りをやっているのでもなく、剣の形をやっているのでもない。
鬼気迫る「気迫」から強さを感じたのだ。
その強さこそ「武」そのものではないのか、「武」が作り上げる人間的強さではないのかとその時実感したのだ。
それは、子供たちの差だけではなく、私たち大人たちの差でもある。
その差はどこから来るのか? 簡単に言ってしまえば、平和の国日本に「武」など本質的には必要のないもの、と言う認識が差を作り出しているのだろうか。
しかし、ここで言う「武」は、日本に伝統的に有る「武」をさしているのであって、近代になり輸入された西洋的なものをさすのではない。 しかも、オランダで「武」を学んでいる子供たちは、紛れもなく日本人初見良昭師を宗家とする伝統的な武神館武道なのだ。
実際として、日本には現在も「武」を掲げるジャンルというか形式と言おうか、それはどちらでも良いが存在するのは確かなことだ。
その「形式」の中に「武」は存在するのか?と言う問題だ。
つまり、「武」が内在させる「強さ」は存在するのか? それは現在の「形式」によって作り出せるものなのか? という根本的な問題を、自分の問題として改めて抱え込まざるを得なくなってしまったのだ。
ここが抜け落ちている限り、それはもはや「武」ではない、アメリカが骨抜きにしてしまった敗戦直後の武術風スポーツ、つまり、ゲームだ。
戸塚ヨットスクールセミナー
JR新神戸駅の上にあるオリエンタルホテルで、戸塚校長のセミナーが開かれた。
これは、毎月定例のセミナーで、全国各地で開かれているセミナーの一つだ。
戸塚ヨットスクールの訓練風景は以前本誌でも紹介したが、その時はウインドサーフィンに初挑戦した私の、いわゆる運動技術論としての日野理論が通用した、というものだった。
戸塚校長と私の出会いは、数年前大阪の大学で行なわれた、大きなオープンセミナーで私も戸塚校長も共に講師で呼ばれて行った時に端を発する。
セミナーの講師として参加したのは、マスコミを賑わした、それこそ悪名高き戸塚ヨットスクールの校長も講師でくる、と主催者に聞いたので、本当はどうなのかを自分の目で確かめたくて参加したものだ。
戸塚校長も武道家も参加する、と主催者に聞かされ、当時校長自身が「五輪の書」を研究していたところから、いくつかの疑問があり、それを解明するチャンスだと感じ参加されたそうだ。
お互いにゼミの時間がずれており、戸塚校長のゼミが私のゼミより先に有ったため、校長のゼミに参加させていただいた。
そこで、戸塚理論の実践と成果をじっくりと聞き、また、ゼミに参加されていた問題児を持つ母親とのやり取りを見、戸塚校長の大きく優しい人となりを実感させていただいた。
その問題児を持つ母親が戸塚校長に質問したとき、「その問題は、お子さんの問題ではなく、お母さんが問題でしょう。だから、お金は要りませんから3カ月ほどうちでトレーニングをしませんか?お母さんが変わればお子さんはすぐに変わりますよ」とおっしゃった。
何と現実離れした優しさなんだ、と深く感動した。
しかし、そのお母さんは、自分でリスクを背負いたくないから、何だかんだと理屈を並べて自己弁護をしていた。
余りにも埒が明かないので、「校長ちょっと一言発言させていただいていいですか」と校長の許可を得て、「こらっ,おばはん!校長が今言っていることが分ってんのんか」と一席ぶってしまった。
この出会いで、戸塚校長の人となりに直接振れる事が出来、マスコミの偏った報道を改めて実感したものだ
(※戸塚ヨットスクールとは、問題児や非行を治すために作られたものではない。国際的なヨットレースで優勝するなど、特に1975年、沖縄海洋博記念「太平洋~沖縄・単独横断レース」で、41日間という驚異的な世界記録で優勝〈太平洋独りぼっちの堀江氏の記録は3カ月〉、未だに破られていないというような輝かしい実績を持つ戸塚氏が、世界で通用するヨットマンになるためには子供の時からヨットをはじめなければ駄目だ、ということで始められた純粋にヨットマン育成の学校だ。 そこに、たまたま小学校5年生の登校拒否児が入校。 しかし登校拒否を治すことが目的ではないので、ヨット訓練の足手まといになるので早く止めさせようと少々手荒く扱った。 ところが1週間もしたら登校拒否が完全に治ったところから世間の評判になり、そういった問題児が多数来るようになった、という経緯だ。)
ヨットスクールでは「影伝」が教材として使われていた
筆者「校長、ご無沙汰しています」
戸塚「日野さん、この間はありがとう、この『武学入門』は素晴らしい本だ。『往なす』というのが、あれほど深い意味を持っていたとは知らなかったなあ」
筆者「いやあ、ありがとうございます」
戸塚「影伝といいこの武学入門といい、本当に分かりやすい、影伝でおっしゃってる『無意識反射』は、いくらでも活用できるよ、おかげで出来ないと思っていたジャイブも平気で出来るようになりましたよ」
筆者「使って頂けたら、ありがたいです」
戸塚「スクールでは教材としても使っているんですよ、送り込まれてくる子供達に影伝を見せ、ものの考え方やとらえ方、そこから自分の考え方を作る、ということをさせているのです。この間、面白いことがあってね、その生徒の一人が、散髪をしてやっていたらもっと短くしろ、というんですよ、それで短くするともっとだ、というんです、それで、お前何か反省しとるんか?と尋ねると、スキンヘッドにしてくれというんですよ。日野さんに憧れちゃってスキンヘッドにしてしまったんですよ、スタイルから入っても駄目だ、といってやったのですが、彼等も色々な意味で強くなりたいのですね」
セミナーでは、問題児の特徴、問題児を持つ親の特徴、戸塚理論から見た精神分析や心理学の矛盾等々、そして、戸塚理論の根幹である「脳幹論」を分かりやすく紹介された。
叉、何故問題児が生まれるのか?も教育論や動物学的見地から話された。
それらは統括して、戸塚理論はこういった問題を一言で括る「脳幹を強くしてやればいいんですよ」と。
セミナーが3分の2ほどすんだ時、戸塚校長が「今日は日野先生がお越しになっているので、少しお話をしてもらいましょう」と紹介されてしまった。
「えー、今日は戸塚校長のお話を伺いにきたのですよ」というやりとりの中で、武神館宗家初見良昭師とオランダで武神館武道を学ぶ子供たちの話、叉私自身の子育て体験から子供はほめなければ強くなるいう話をさせて頂いた。
戸塚脳幹論は「人を強くする」
「脳幹を強くしてやればいいんだ」、この一言が、武術から強さを求める私と戸塚校長の接点だ。
つまり、「強くしてやればよい→強くなれる」という確たる理論が戸塚校長にはあり、この「強い」が「人としての強さ」をさし、「武」が内包する「強さ」であり目的としての「強さ」でもあるのだ。
戸塚脳幹論を一言で表すことは出来ないが、敢えて言うならば、まず、脳幹は大脳、小脳と脊髄の中間に位置する部分で、「間脳、中脳、橋、及び延髄」がこれに含まれる。
間脳には、自律神経の最高中枢があり、内臓器官の調節を行う中枢も有る。
延髄には、呼吸や循環機能の中枢や、その他、生命を保つのに必要な中枢がある。
つまり、生命そのものとダイレクトに関っている器官だということだ。
この脳幹が弱っている(開発できていない)ということが戸塚論で言うところの「弱い」にあたり、問題児の共通項だ。
したがってこれを強くしてやれば良い(開発してやればよい)、ということだ。
戸塚校長が常に口にされる、「人間の行動原則は『快を求め、不快を避ける』だから、感情が人に行動させる」というのがある。
そこから、「罪の意識」と言う本能を考えたとき、間違った行動を止める働きが「罪の意識」には有る。
例えば、子供を叩いたり首を締めたりすれば、子供は痛がり苦しそうな声を出す。
その情報を、目・耳で受け取ったとき、私たちの脳は情報処理をし「罪の意識」という不快感を発生させる。
そして、その不快から逃げるためには、今の行動を止めなければならない。
だから、子供を殺さずにすむ、という図式になる。
つまり、本能の強い人ほど「罪の意識も」も強い、ということになるのだ。
その強い本能をベースにして、道徳や倫理という理性を作り上げる。
そうでなければ、道徳的倫理的な人間にはなれない。
例えば、現在起こっている少年犯罪で人を殺しておきながら「罪の意識がない」「淡々と話をしている」「早く家に帰りたい」等と、一般的には首をかしげたくなるような態度をとる少年がいる。
これらは、理性の問題ではなく、本能が希薄になっているからであり、その特徴は、表情に表れている、とおっしゃっている。
簡単に書いてしまったが、この「脳幹論」で過去六百人以上の問題児を預かり、それこそ、殆ど百パーセントの確立で問題児達を立ち治らせているのだ。
つまり、脳幹を鍛えること出来る(開発する)、ということと、そうすることで「人は強くなれる」、問題児達は強くなれたから立ち直れたというケチの付けようが無い証だ。
ここで読者は、この戸塚理論は問題児、つまり、脳幹の弱い人を強くすることが出来るが、武術で言う強さとは違うのではないか?と疑問を持たれる方も居られるだろう。
しかし、何一つ違うことはないのだ。
「文武両道」が「人」を作り上げる
戸塚理論が言うところの「強い」に興味を持ったのは、いわゆる問題児は様々な面で「弱い」ということであり、だから「キレる」という防衛行動にでる、そうなのだから「強くしてやればよい」という単純明快な切り口と実績があったからだ。
「脳幹」が開発されていない人達
この「弱い」は本能に関る「脳幹」が受け持つ、という実に具体的なところまで解明されており、さらには、人は「文武両道」によって形成される、と明確におっしゃっておられるからでもある。
こういった「キレる」という問題は、現実的には問題児といわれる少年や少女達の問題だけではなく、その問題児を育てている親達も環境としての大人も同じ問題を抱えている。
更に言えば、私たちそのものの問題でもあるのだ。
その親達も「弱い」から、守らなければならないはずの子供を守れずに、親が子供に対して防衛本能が働き、子供を守らずにキレる。
そこで責任転嫁という悪知恵で、カウンセラーや病院、学校、はたまた社会へと問題を持っていき攻撃をする。
持って来られた人達は、これ叉「弱い」人達ばかりだから、「子供の意見をよく聞いて」「学校ではいじめはない」などに代表される、これもまた相談されている個人が答えを出すのではなく(本人達は出しているつもりの人もいるが、頭が悪いのでそれが分からない)責任転嫁をし、解決にも何もならないことをさも分かった風に当事者の親達にアドバイスをする。 結果、現在の多くの事件になっているのだ。
とにかく、全てが弱いと言い切れるだろう。
つまり、「弱い」から、自分で責任をとれないのだ、だから、問題をうやむやにしたり先送りしたり、自分の責任回避という行動だけを取るのだ。
校長「いやあ、日野さん親はひどいもんですよ、ベンツで子供をヨットスクールへ連れてきて、犬や猫の子を預けるように『何とかしてくれ』でしょう、挙げ句の果ては費用を払わない人もたくさんいるんですよ、正に、この親にしてこの子ありですよ」
本来、子供に対して働くはずの無い防衛本能が働いてしまうという、種保存という生物の本能から見れば、実に無茶苦茶なことが起こってしまうのだ。 親が子供に対して防衛本能が働く、親の本能が弱いからその上に乗るべき理性も貧弱だ、当然すぐ極限にまで達する、つまり、パンクするキレる、だ。 すると、子供を殺す、子供を虐待するという行動に出る。 つまり、親(大人)も「弱い」のだ。 といったところから「弱い」の実体を戸塚理論では「脳幹が正常に働いていない」、つまり、脳幹が弱っているのだから鍛えてやればよい、ということになり、それをヨットという道具を使って鍛えることをし奇跡的な結果を生みだしているのだ。
2年前、私の道場に来られた戸塚校長が「日野さん、今や戸塚ヨットスクールでは問題児を立ち直らせることは一寸やそっとでは出来ない、日野さん所のやり方ではだめだろうか?」と言われたことがある。
これは、戸塚ヨットスクールの問題が尾を引き、やれ体罰だ、虐待だと無責任極まり無いマスコミが報道し、警察もそれに乗り「人の成長」「躾け直し」という根幹を何も分からずに監視しているものだから、本当に重要な「危機感を根底にした本能の開発」を短期間で植え付けることが出来なくなったからだ。
つまり、脳幹を鍛えることが困難になってきたというのだ。
私は、「武道ではもっと無理があります。だって、本当に木刀で殴らないと知っているのですから」と答えたことがある。
最終的には、山の中に一人で放り出して3日後に迎えに行く、といった方法しかないのではないか?などと案を出しあったものだ。
「武」の存在意味と大前提
ここで言う「弱い」「強い」は、直接的に「武」に繋がっている。 つまり、「武」により何を鍛えるのか?という問題だ。
叉、何が鍛えられるのか?という問題だ。
間違っても「武術」ではない、「術」以前の「武」だ。
となると、「武」とは何か?を押さえておかなければならない。
「武とは、自分の生命を投げ打っても守るべきものを守る力」、というものであり、それは具体的には、自分の家族であったり群れであったり大きくは国家を守る力だ。
そして、自分自身の志というべきレベルの高い目的を守る力でもある。
だから、今日よく武術でうたわれている「自分自身の護身のため」とは、全く正反対に位置するものだ。
これは、動物で考えてみるとよく分かる。
猿でも野犬でも、とにかく群れを持ち生活する動物にはボスがいる。
もしも、自分の群れが他の群れや、天敵に襲われそうになったとき、身を挺して群れを守ろうとする。
もちろん、家族単位で生活する動物は、家族の危機の時には家族を守ろうとする、
これが「武」の本質としての存在意味だ。
たとえ、草食動物であっても肉食動物からの襲撃に立ち向かい、自分の子供を守ろうとする。
だから、強くなければいけない、ということは大前提にあるものだ。
この図式はそっくり人間に当てはまる。
「武士」という職業軍人が誕生したときに「武」が始まったのではなく、何万年という人の歴史の始まりとともに、それがオーバーな表現であるなら、弥生時代に集落で生活するようになったころから存在するものだ。
だから、当然どんな民族にも存在するものであり、「武」という括りで言えば日本独特のものではなく、動物共通の本能なのだ。
といった「武」の本質を、現代において道場武術で鍛えることは出来るのか?という問題だ。
道場では、「武」は潜在的にあるもの、もしくは、「術」を極めていけば「武」は育つ、と解釈しているか、そういったことを知らないか、だ。
つまり、人には潜在的に「武」がある、としているのか知らないのか、ということだ。
先月号で紹介した、武神館オランダ道場での子供たちのトレーニングは、正にこの部分の教育を行っていたのだ。
彼等は、人武を鍛えなければ育たない、という極々当たり前の考え方で子供たちに接していたのだ。
文武両道とは
日野「戸塚校長、改めて聞きますが人は誰でも強くなれるのでしょうか?」
校長「もちろんです、誰でも強くなることは出来ます。どうしてヨットやウインドサーフィンかといえば、人は陸で生活するするようになり、水というのは危険なものである、と認識しています。だから、水に落ちる恐怖、そこから這い上がろうとする力、そういったことが『脳幹』を刺激し、正常に働くようにさせるのです。具体的にいえば、細胞は、外から掛かる負荷に応じた機能を持とうとします。そこから考えれば、脳細胞に精神的負荷をかけ、それを取り除く行動をする、ということです」
日野「取り除く行動というのは、以前校長がおっしゃっていた『本能は、快を求め不快を取り除く』というところの、取り除く、ということですね」
校長「そうです、そしてその負荷は、我々の脳が予定している最も質の高い負荷で、それを適量与えるということです。最も質の高い負荷とは、誰にでも分かる通り『生きるか死ぬか』です」
日野「なるほど、するとそれを取り除く行動とは、『生きようという行動』になるわけですね」
校長「日野さんなども経験があると思うのですが、危ない遊びをしたでしょう?」
日野「そうですね、今から考えると相当危険なことをして遊びましたし、危険なことが遊びだったですね」
校長「昔の子供はなぜあれほど危ない遊びをしたのでしょう?細い木の先まで上っていったり、橋の欄干の上を渡ったり、階段の手すりを滑り降りたり、親が見たら心臓が止まりそうなこの行動は、本能のトレーニングのために行われていたのです。動物としての人はこういったことを無意識的に知っているのですね。それが、幼児の頃からゲームだ、塾だと強制することで本能の開発、つまり人間性の開発を全くしていないのです。だから、こういったところにある恐怖を、ヨットスクールでは人工的に作りだしているのです」
ここで言う『生きようという行動』は、ドーパミンを大量に分泌する、つまり、脳幹が刺激されているということであり、そのことが本能を鍛えているということになるのだ。 だから、結果として「強い身体(健康という意味も含めた)」の基礎を作っていることにもなる。
日野「ところで、校長は『文武両道』と唱えていらっしゃいますが、校長のいう『武』とは、どういったものを指しておられるのでしょうか?」
校長「文武両道とは、バランスのよい理性を作り出す為のものだと言うことです。『武』は『情・意』を強くしますから、実践において進歩の法則をつかむことが出来ます。『情』とは、本能に関る感情のことで、『意』とは、意志のことです。だから、強い感情強い意志となるわけですね、感情が弱いとすぐにキレる、意志が弱いと何事も成し得ない、そこから言えば、先程の『快を求め不快を避ける』の『快』は非常にレベルの低いもの、例えば、何もしないということでしょう。そして『不快を避ける』はやはり何もしないということになりますが、そこに少しでも負荷が掛かると、つまり注意などを受けるとキレるという行動で不快を避けるのですね。したがって、大きな負荷、例えば長年にわたって修練しなければ身に付かないことには手を出さないし出せない、しかし、大きな負荷をかけた人は、大きな喜びがあり満足感を得る、といった図式です。だから、これらを強くすることが強い理性を作る根幹になるのです。そして正しい理性を育むことで本当の意味で強い人になる、ということです。強い人は強い力を持つ、その力は群れのためにあり、自分のためにあるのではありません。その使い方を間違ったものが暴力です、この辺りもきちんと押さえておかなければなりませんよね」
術を習っても強くはなれない、強いから術を学び使えるのだ
ここで言う「強い」は、「強い本能」ということであり、それはバランスの取れた人のことをいう。
そしてこの「強い」が人の根幹であり、「武」の根幹でもある。
とすると、この根幹を鍛えるべき何かが現代の武術に存在するのか?と考えざるを得ない。
何を言いたいのかといえば、冒頭で述べた「弱い人」や「問題児」は、マスコミの中にだけ存在するものではなく、例外なく私たちをも含んでいるのだ。
つまり、私達が「弱い」という局面に出会ったときに「弱い」ということが分かり(自分の世界以外の世界で自分を通用させようとしたとき、自分の世界観が狭ければ通用しない、という局面が訪れる。 その時に自分の弱さを発見できるのだ。だから、色々な世界を体験しなければ自分の弱さを知ることが出来ない)、少年が「問題」を起こしたときに「問題児」となるだけで、そのベースに流れているものは殆ど同じだということだ。
なぜなら、戦後、日本国中同じ価値観の教育を受け育っているからだ。
そこに例外の入る余地はない。
そして私達は、戸塚校長がいう「文武両道」の「武」に取り組んでいるにもかかわらず、「術」には取り組めても「武」には取り組めない。 つまり、脳幹を刺激するべき質の高い負荷「生きるか死ぬか」が存在しないということだ。
もちろん、そういった環境の中でも武神館の初見宗家のごとく「強い人」は存在するが、それは現代において極稀なことだと言っても言い過ぎではないだろう。
未だ、GHQの亡霊にうなされているのだ。
そういった「武」という基盤が確立されていないところに、「術」が乗っかっても何の意味があるのだろうか。
いや、乗っかるのだろうかという問題だ。
まるで、学校の授業のように、また学習塾のように人生にとって人間にとって意味のない「方法論」だけを展開したところで、学問を「何に使うのか、また本当に自分は使えるほど強いのか」という根幹がおざなりにされた現状で、何が育つのか、何が鍛えられているのか?だ。
勘違いしないで欲しい、「術を習ったから強くなるのではなく、強いから術を使える」のだ。
決してこの逆は有りえない。
これは、勉強の本質と同じだ。
頭が良いから色々な学問を修められるのであって、学問を習ったところで頭は良くならない、その学問を知ったに過ぎない、社会見学したに過ぎない、したがって学問を活用することは出来ない、高校を大学を卒業し、社会に出ればそれまでの勉強では全く通用しない世界に入るという事実が、意味のない学校生活だったということを物語っている。
そして、ここにも「何に使うのか、使えるのか」が全く存在しないことにも気が付くだろう。
こういったことは、私自身が大手企業の新入社員研修などに関っていたこともあり、如実に感じる問題だったのだ。
とにかく、使い物にならないのだ。
武術という世界も、ここで言う現代の間違った教育システムで育ってしまい「弱い」「事実と正面から向い合えない」人間になってしまった私達、また、その子供の象徴としての「問題児」、を作り出すことと同質の間違いを犯していっていることにほかならない。
私は「武」のホビィピープルではない
少なくとも、私が出会った武神館のモーガンさん(イギリス人)は、ここで言う脳幹が鍛えられたバランスのよい理性を備えた強い人だ。
彼が、つぶやいた一言は強烈に私の魂に突き刺さった
「ミスター日野、私は皆のように武道のホビーピィプルではない、武道を生きているのだ」
彼は、武神館初見宗家に約二十年間ついており、これからも永遠に師だという。
中学を卒業し軍隊に入り、その後民間で武術教官として、また、要人警護のスペシャリストの養成をして活躍している。
その彼が、師と仰いでいるのは、日本人の初見良昭師だ。
彼は、ここで言う質の高い負荷を「軍隊」という中で体験し、要人警護というところでも体験し続けている。
そして、「武」の本質である、「自分の命をかけて守るべきものを守る」を実際に実現している。
つまり「強い」人だ。
彼と話をするほどに、ここで取り上げた問題が身体から沸き上がる。
「武」を獲得し「術」を学んでいる人は外国にしかいないのだろううか?
日本の伝統文化の一つであり、百余年前日露戦争で大敗を喫したロシアの社説に掲げられた、「日本人は世界にとって驚異である、今からその対策を練らなければいけない」と日本人を恐れた根源である「武」が残っているというならば、そして受け継いでいるというならば、ここで言う「武」そのものを示し、また鍛錬の方法としての「生きるか死ぬか」を提示しなければならない。
その時こそ、我々日本人がGHQの呪縛から解き放たれ、本来の日本人が甦るのだ。