どんなことでも一人では育たない
熊野、やっぱり暑い。
午前7時30分の飛行機で白浜に戻った。
夏休みらしく、飛行機も少し大きなものになり、殆ど満席だった。
7時30分に羽田となると、6時30分には羽田に着いておく必要がある。
という事は5時30分までの電車に乗らないと駄目だ。
という事で、昨夜は寝たのか寝ていないのかが分からない状態だった。
何時も通り目覚まし時計よりも早く起き、目覚まし時計を止めておいた。
その状態で飛行機に乗ったので、サービスを受けるも何もなく眠りこけていた。
約30年前、雑誌「秘伝」で連載が始まった。
46,7歳だった。
それまでに文章は、10代後半からジャズや音楽について、殆ど毎日書いていた。
芸術に関して、武道に関しても書いていた。
その量たるや誰もが驚く枚数だ。
もちろん、そうして書いた文章をどこかに発表しよう、と思ってのものではない。
思っている事を「書く」という行動に変える事で、自分の頭の中身を知る事が出来るからだ。
しかし、知る事は出来ても評価は出来ない。
評価する為の何かを持っていないからだ。
もちろん、そういった事も考えた事はない。
20代の後半に、当時関わっていた劇団で打ち合わせをしていた。
そこに映像を担当する青年が来ていた。
この青年は後々私の義弟になる。
青年は芸術や表現に関しては独自の見解を持っており、その言葉に惹かれた。
武道にも詳しく、宮本武蔵や色々な達人や武道の技を知っていた。
それらは全て「表現」という事で勉強になると言っていた。
それら、どの話でも深く詳しかった。
彼の勧めで一冊の本を読むことになった。
頭のページから読めない。
字は読めるが、余りにも硬い文章で、私としてはそういったタイプの本を読むのは初めてだったからだ。
結局、この本を読んでしまうのに7年かかった。
その本から矛盾を見付けたので、この本はまず読めた事だとしたのだ。
その本を読んだおかげで、客観的に自分の文章を読む力が出来たのだと思う。
つまり、自分の文章を評価出来る力が付いたのだ。
もちろん、評論出来る力がついても、私としては何の意味もない。
ただ、雑誌や書籍になる、とすれば、ちゃんと書けていなければ、いくらでも編集者からのペンが入ったり校正が入ったりし、私そのものではなくなると思っていたからだ。
今から30年程前に「雑誌秘伝」で連載が始まり、原稿が載った時、原稿を大分校正してくれたそうなのだ。
社長が「日野さんの文章は、リズム感が良く言いたい事を明確にしているので、魅力的な文章です。でも最初は大分ペンを入れたのですよ」
「そうなんですね、ほんとお世話になっています」だ。
その意味で、雑誌「秘伝」で連載の仕事がなければ、つまり、毎月約30年間書き続けているのですから、「秘伝」に育てられたという事にもなるのだ。
大阪ワークショップは初秋の9月21.22.23日