何かが仕上がるまでには
例えば、現在の私は、結構うまいこと体重を移動させる事が出来る。
それを見た人は、誰でも「練習をしてきたから」だと括ってしまうだろうと思う。
私は、どんな時でもどういう訳かそうは思わない。
それよりも「何を?どう?」また「どこから?」と考える。
養神館合気道の故塩田宗家を初めて拝見した時、その見事な技にその場は驚嘆した。
只々驚嘆した。
しかし、私はファンではないので「何を習われたのか?」「どこから稽古をされたのか?」「何をしたから、何に気付かれたのか?」というような事を、その技や動き、お話になる言葉から推察していった。
現代の人なら、その事を質問されるかもしれない。
しかし、いくら話を聞けてもそれは話しだ。
「聞けて良かった」という自己満足でしかない。
そんな自己満足の為に、誰かの時間を犠牲にさせる訳にはいかない。
推察すると同時に、その時拝見した身体の形や動きを、頭の中で何度も何度も繰り返すのだ。
もちろん、そんな事は私のただの妄想だ。
しかし、その妄想を利用して稽古を組み立て具体化させ、一つの形を紡ぎ出していく。
その過程を嫌という程作り出していく。
そして、一つの形が、その時に拝見した形に似たように仕上がると、直ぐに何かしらの応用を試みる。
それが拝見した形と似ていなければ、また妄想の一に戻るのだ。
だから、実はこの妄想というのは「仮説」なのだ。
この仮説を立てられなければ、何も実現しない。
その事を「妄想を通して知っていった」のだ。
先ずは、その拝見した現象(技)を似たような形になるまで練習をする。
似たような形になってから、どうしてこの形から相手は転げるのかを冷静に考える。
仕組みを考えて行くのだ。
そういった事を徹底的に繰り返す。
これだけの事に10年位はかかっている。
だから、何かが出来るようになった過程を、「こういう具合に」と言語化しては不可能なのだ。
人が思う「練習をしてきたから」の裏には、想像出来ない色々な事が眠っている。
だから、言葉は単純だが実際はそうではない。
そこを想像できる自分なりの言葉を編み出さないと、他人を知ったり、自分を知ったりする事は出来ない。
つまり、他人を尊敬する事など出来ないのだ。
大阪ワークショップは初秋の9月21.22.23日