8月23日は上棟式だった
もしかしたら、丁度40年前にここ熊野に越して来たかもしれない。
いやそうだわ。調べたら最初の頃の日記に、1984年8月23日に上棟式とあった。
この時点では、建築技術も知識も殆どゼロだった。
本を買ったり、建築現場を見学させて貰ったりの毎日でもあった。
基礎だけは業者に頼もうとは思っていた。
水平さえ出ていれば何とかなるだろうと思っていたからだ。
もちろん、その思うは、本当に「思っていただけ」で何の根拠も無い中での話だ。
そこから10年、色々あり道場を建てた。
実際、建築だけの時間なら、幾ら素人でも半分の5年で建てられたと思う。
実際そうだ。
後の半分は、お金を稼いでいたのだ。
木材や材料、運搬の為のトラックやフォークリフト等の重機、建築機械も必要だったからだ。
思えば、一生懸命に建てている時は、近所の工務店よりも機材は揃っていた。
稼いだしそれら全てで道場を建てたのだ。
40年前のこのあたりは、もちろん、今よりも閉鎖的だった。
それこそ我々は村八分だし、何者かをしろうともせずに泥棒扱いも受けた。
そんな他愛もない与太話を真に受け、田辺署からは月に1回は刑事たちが4人程で監視に来ていた。
村ではどんな噂が立っていたのだろうと思う。
舌打ちをされたくらいで、それがハラスメントだと騒ぐ、何かというとハラスメントだと騒ぐ、今時の人達なら、きっと出て行くか自殺したかもしれない状況でもあった。
ま、そんな人達は、私のような冒険的な生活はしないだろう。
家畜の様に餌を貰って生きていればよいのだ。
息子は以前書いていたように、小学1年生から中学3年生までいじめを受けていた。
しかし、そんな事は痛くも痒くもない。
どうして、そんな事で「傷ついた」と泣くのだろうか、不思議でならない。
それでは野生、つまり、何でもありの社会では生きてゆけない。
ハラスメントだと騒げたとしても、それで何某かの賠償金を取れたとしても、その生命の弱さを補えるものはない。
自分自身を家畜にして生きるしか、生きる術はない。
あるいは、病院に助けを求めるしかないのは嫌ではないのか?
と、考える、あるいは想像する力もないのか?
ま、そんな色々があり、この道場を建てたのだ。
大阪ワークショップは初秋の9月21.22.23日