
「声」は音ではない。
「声」は純粋なる自分そのものである。
「声」は意味や理解を運ぶ道具ではない。
「声」は人そのものである。
それを聴き取る事を「聴く」というのだ。
それが「関係・愛」である。
「武禅一の行」はその実現を生ある内にを目指している。
自分と真剣に向き合っていますか?
人と真剣に向き合えていますか?
その「場」にいますか?
確かに「その人」に話したり、「その人」を聴いたりしていますか?
全てが自己完結させていませんか?
喜び、悲しみ、怒りを表出させていますか?
それが「今」生きているという事ですよ!
誰かと真剣に向き合った事がありますか?
誰かがあなたに真剣に向き合ってくれた事がありますか?
人生であれ社会であれ、全ては「人との関係」でしか成り立ちません。
決して、理屈の上で成り立っているのではありませんし、仕組みの上にあるのでもありません。
つまり、人は他人との関係を糧として成長し生きるものなのです。

「関係を糧として」というのは、そこにこころの充実としての「幸せや安心が湧き上がる」ことです。
「関係を糧と出来る」には、「真剣に」が基本です。
「真剣とは」理屈や自分を評価するような働きを起こさない状態です。
いわば「全身全霊で」ということです。
それは、「気付く→理解・納得」ではなく、「気付く→その場で修正」という直接的な行為を伴った事です。
こう書けば、まるで昭和のような古めかしさを感じるかもしれません。
しかし、それは、既にあなたが時代やメディアが垂れ流す情報に洗脳されているからです。
人そのものは、文明を築いた頃から何一つ変わっていません。
変わっていったのは、時代時代の技術の進化だけです。
そこから言えば、人は技術の進化の分だけ感性や感覚が退化していっている、とも言えるのです。
こころの充実は、自分の外にあるのではなく、人との「関係」、何かとの「関係が生み出してくれるもの」なのです。

日本の誇る伝統文化の武道は、人間関係や社会を生きる為の要素の詰まった宝箱ですが、不思議な事に一般の人にとっては馴染みが無いといっても過言ではありません。
江戸時代は、戦争を禁止し文化が熟成される時間になりました。
そこで秩序を作る為の教えは、武士たちの考え方や禅の教えが、一般にも寺子屋やお寺などを通じて広まり、日本人の生きる指針となっていったのです。
「武禅」は、その武道の要素だけを取り出し、武道経験の無い人も取り組める形にしたものです。
ですから、「武禅」は何かの方法を習うものではありません。
出来ない自分の何かに気づく事、そして、それをその場で修正していく事です。
そして、関係の出来る人間に生まれ変わって下さい。
その事が自分も家族も周囲も豊かなこころにする事なのですから。

ピラミッドの前に、2人組みで「オイ」を口パクで声を出さなくても、全身全霊で向き合えば届くのだと思った。普段の生活で、いかに相手と向き合っていなかったかが分かった。「本気で向き合う」凄く大切。そんな事を考えた事も無かった。今、レポートを書いていて「本気で向き合う」と書いた瞬間に涙が出そうになった。何か私の中で凄く響いている。日常に戻ってもこの感覚を持ち続けていたい。
(受講者の声から)
「関係」とは、お互いのこころが開かれた状態で、共鳴し合っている事です

こちらの視線は相手の目に注がれ、相手も視線を目に注いできます。
ただそれだけですが、その事で、自分のこころがざわついていたり、雑念が頭を支配している事に気が付きます。
つまり、日頃は「こころが向き合っていない」という事に気が付くのです。
逆にあなたが刀を持った時、目の前にいるはずの人が「なんだか遠いなあ、私を見てくれていないなあ」という、相手のこころが自分に向き合っていないことを実感します。
それが大切な第一段階です。
それを実感できるだけで、日常で自分に向き合ってくれているはずの人が向き合っていないことに気が付くでしょう。
しかし、あなたは誰とでも向き合えるようにならなければなりません。
そうする事が、誰もがあなたの事を信頼し、こころを開いてくれる事になるのですから。
