武道に極意無し1

武神館恒例の大光明祭で初見宗家がおっしゃられた、「武道に極意なんて有りませんよ、もしもそんなものに拘っていたら殺されちゃいますよ」は、色々な意味で言い得て妙だ。

つまり、何か一つのこと、そしてそれが魔法の剣であるかのごとく頼っていたら、本当に大切なことを見落としてしまうし、何よりも変化する事実を捉えられなくなり対応できなくなるという意味だからだ。 逆説的にいえば、一つのことに拘らない、一つのことに頼らない、変化する現状に即対応できる、という事が「極意」と言える。 しかし、しかし、ここで言う「極意」とは、「何の為の」極意なのかだ。 そして、もっとも大事なことは、「極意」というのは、単なる「言葉」に過ぎないという事である。

要素還元主義という考え方

要素還元主義という言葉がある。 例えて言えば、カリフォルニアでおいしいオレンジが採れ、それを食べている地元の人達は肌がきれいで何時も元気だ。 という現象があったとしよう。 すると、そのオレンジを科学的に分析し、結果オレンジにはビタミンCという物質が入っていることが分かり、ビタミンCの構造も分かった。 そこで、そのビタミンCを化 学的に合成し作り出して錠剤にした。 その錠剤を飲めば、カリフォルニアのオレンジと同じ効果がある、というのが要素還元という考え方だ。 この考え方は西洋合理主義の悪い側面が百パーセント出ているものだ。

確かに、オレンジにはビタミンCが入っているのだろう。 しかしそれは、その機械を考えだした特定の人間 が生み出した、限定されたものを検出するために作り出された機械が検出したものであって、オレンジそのものの中身ではない。 ここのところが大事な部分だ。 機械を作りだした人間の頭の中身、つまり、限定されている頭で考えついた機械ということだ。

又、限定したからこそ機械というもの、検出するということが出来ているのだ。 したがって、その機械が検出した要素は、オレンジの中身では有るが全てではない、という事だ。 しかし、時として私達は、その機械が検出した数値なり色々な情報なりを全てだと錯覚してしまうきらいが有るというところに、要素還元主義が成立しているのだ。 実際は、カリフォルニアという自然・気候・風土、それを食べる人達の社会生活や精神生活、そして生き方、といった、数値化出来ないものがそのオレンジを生み出し、食して肌がきれいなのであって、オレンジに含まれているたった一つの要素を食べているのでも、食べる側が画一的なロボットでもないのだ。 もっと言えば、「食べる」という事自体を楽しんでいたり、香りや風味と言ったものを楽しんだり、だから、身体にとって効果のあるものになっているのだ。 まさか、錠剤の風味や香りを楽しむマニアはいないだろう。 ドラッグじゃあるまいし、錠剤を仲間でわいわいやりながら食べるものもいないだろう。 そういった数値化出来ない行為が、効果の有無と密接に関わっていることは医学でも検証され医療のあり方がどんどん変化していっている昨今だ。

もう一つ非常に厄介なところは、それを食べる人は「人」として一般化(数値化)されることの無い、個体差や違いがある生物だということだ。 つまり、数値化して作り出したビタミンCを、数値化し作り出したロボットであれば百パーセント効果が出るだろう、しかし、絶対に数値化できない「人」が食べるというところが、この要素還元主義が適応出来ない処だということだ。 大まかに言えば、要素還元主義とはこんなものだ。 このビタミンCの部分を「極意」と置き換えて見れば一目瞭然だ。 もちろん、ここでいうビタミンCという物質を作り出すためには必要なことだ。 そして、現在私達を取り巻いているあらゆる物質を作り出したり、加工したり、という意味においては一番有効なものの考え方ではあるが、問題は、物質ではなく「身体」という数値化できない個別差の塊の様なものに適応するかどうか、ということだ。

だから、要素還元主義は適応しない、という事になる。 しかし、これらのように分別できない人は、要素還元主義の罠に見事に引っ掛かる。 それは、日本においては非常に有効な罠だ。 この要素還元主義の罠に引っ掛かった典型的な例は、これも医学からの話だが、最近の子供たちの重心の位置が後ろに後退しているそうだ。 つまり、足の踵の後ろの方に重心が移っていっているそうなのだ。 これは、数十年の間で起こっている現象で、もしも、このまま重心が後ろに下り続けるならば、理論上では子供たちは立っていられなくなるそうだ。 実際的には、上半身がそのバランスを取るので、猫背や顎が前に突き出した姿勢の人が増え、当然その影響で内蔵の弱い子供たちが多くなるということだろう。

そういった警鐘を受けて、ある民間の保育所では子供たちと先生とが一緒になって、組んずほぐれつの「遊び」を取り入れた。 その結果、半年後には重心の位置が正常になったと報告された。 一方、筑波大学の付属高校では、重心位置の変化と肉体運動という事を徹底的に研究(生活習慣としての夜更かしなどの時間の作り方も見直した)、様々なストレッチや運動が生み出され、それに生徒達が「取り組み」やはり、半年後には重心位置が正常になったそうだ。 この筑波の取り組みが、現代日本の悪しき象徴だ。

つまり、要素還元主義の悪い面での使用法だということだ。 なぜ悪い面だと言うと、この場合、重心位置が後退した、というところが現象だが、それは、運動が足らないから、肉体のバランスが崩れているから、という単純な原因だと言い切ることが出来ない、にもかかわらず乱暴に言えば、運動不足という事だけが原因だとした間違いだ。 もちろん、結果として重心位置は正常になった、それはそれで正しい。 しかし、それに比べて、民間の保育所の取り組みは、別段どの筋肉が使われていないから、といったデジタル的な考え方ではなく、子供という人間を活性化させようと取り組んだ。

目的としたものの結果は同じだったが、組んずほぐれつという肉体全体に対する刺激には、痛みや苦痛を伴うものも含まれる。 当然、子供達は泣くだろうし、笑うだろうし、怒るだろう。 痛みを与えられた子供は与えた子供を嫌いになったり、その逆の事が起こったりするだろう。 つまり、全身への刺激は脳を発達させ、人として必要な様々な能力(感性や人との関係性)が育まれ、その内の一つの現象として重心位置が正常になった、という事が、保育所が取り組んだことであり、重心位置だけが正常になった、というのが筑波の取り組み、つまり、デジタルな要素還元主義的な取り組みだという事だ。 これらが、要素還元主義的なデジタルな考え方と、アナログの考え方の違いだ。

つまり、武術は、アナログ的な考え方でなければいけないということが分かるだろう。 「遊び」と「取り組み」に何故「」付けをしたのかといえば、あらゆることに取り組むときの姿勢の問題が、結果を大きく変えてしまうからだ。 「遊び」といった場合、その内容に対して個々の子供達が自由な角度から、自由に感じ、自由に想像し、自由に自分の世界や他人との世界を作り上げることが出来るが、「取り組み」といった時、その内容に対して「義務」が生じたり、「命令」として消化したり、という事が多く、又、目的が決められているので、プラスアルファの部分に欠落してしまうことが多いのだ。 正に要素還元主義が生んだ悲喜劇だ。

「極意」は情熱と取り組む時間の量を持てる才能が紡ぎだす

私の知人の一人に宮大工をしている人がいる。 この人から、何かの敷物に使ってくれと、桧の板を貰ったことがある。 その板は、まるで合板のように、又、鏡のようにピカピカに光り、いくら繊細な指先で板を撫でてみても凹凸を発見することが出来なかった。

もちろん、私の指先と宮大工の人の指先では繊細さがかなり違うだろうが、私も身体に触ることで意識の変化くらいは察知できる繊細さは持っている。 例えば、この宮大工の人のカンナをかける「極意」とは何だろう?カンナの角度か、力の入れ方か、木の目の読み方か、カンナをかけるときの座り方か等々、色々と考えることは出来る。 それが要素の拾い出しだ。 だから、これだけを取ってみたら間違っているのではない。 つまり、宮大工の人がカンナをかける、という現象には何が含まれているのか?を探しだすことなのだから。

間違いは、出てきた要素だけに取り組めば、そして、要素はこれだけだ、と限定してしまっている、というところからが間違っていくという事なのだ。 この宮大工の人は、中学を卒業し大工の修業に入ったそうだ。 それから三十年余りの時間を大工一筋に歩んでいる。 私の道場の近所にある本宮大社や、那智の滝の傍にある妙法山の奥の院の修復など、それこそ、国宝級の建造物の工事に関わったり、あるいは、棟梁で任されたりという実力をもった宮大工だ。 ここでの「極意」は、誰が考えても分かるだろう。 三十余年の歳月の中で、身体が体得してきたという事だ。 つまり、「極意」は「時間と行動」、そして、目的意識を作り出した「志」が掴み出してくれたということであって、決して、カンナの掛け方という具体的なものを親方から習ったから出来たものではない、という事だ。

つまり、「極意」とは、こういった直接目に見えないものの蓄積が身体において能力として発芽したもの、「目に見えないもの」なのだ。 だから、その宮大工の人は、色々な現場で、色々な材料と道具、多種多様な条件の中で質の落ちない仕事が出来ているのだ。 つまり、変化に即応する柔軟な頭と身体技術が身に付いているのだ。

例えば、技能訓練学校の様なものがあり、そこでカンナのかけ方を習ったとしよう。 そこは、学校だからカンナにまつわる色々な要素を引き出し訓練する。 つまり、要素の還元だ。 結果卒業したらその宮大工の人のように国宝級の建造物に関わる仕事が出来るようになっているのだろうか?それはあり得ないと誰にでも分かるだろう。 調理師の学校出れば、料亭の花板になれるのか、一流レストランのシェフになれるのか、デザイナーの学校を卒業すれば、即パリで自分のショーを開けるのか、それらは全て同じだ。 あり得ないのだ。

宮大工の人が見習いの時、掃除の仕方から習ったという。 親方の仕事ぶりを徹底的に盗み見し真似をし、といった毎日だったそうだ。 どんな場合でも、ここのプロセスを抜いて「極意」を得ることはない。 逆に言えば、このプロセスを自分自身の決断の元、素直に辿れることこそが「極意」とも言えるのだ。 ここで、「カンナのかけ方の極意」とした事が間違っている、という事に気付かれた人が何人いるだろう。 つまり、問題定義そのものが間違っているのだ。 言葉としては、「カンナのかけ方の極意」と書くことも話すことも出来るが、実際には、又現実的には、「カンナのかけ方の極意」ではなく、宮大工というその人全体であり、宮大工という職業を選んでいるその人の考え方や感性生き方等が総合されたところでの「カンナのかけ方」であり、極意なのだ。 つまり、カンナのかけ方という大工の技術としての部分を支えているのは、紛れもなく宮大工という全体だということだ。 だから、カンナのかけ方の極意というものは、切り取って活字化したり言葉化したりすることは出来ても、現実性実現性は全く無いということだ。 こういった事も、要素還元主義という考え方がもたらす間違いだという事を認識しておくことが、罠にはまらない方法の一つだ。

「極意」という病気にとらわれないように

大光明祭では、一つの基本的な動きから様々に変化し、又、多様な武器に応用する、という事を目まぐるしい早さで進められる。 例えば、仮にここで手本を示してくれる初見宗家、初見宗家の手本の一つの身体の動きを分析し、要素を拾い出したとしよう。 しかしその手本に問題がある。その手本は、初見宗家としての一つの結果であり完成品でありケースバイケースの中のたった一つの例にすぎない。 つまり、初見宗家の武術歴六十余年の時間の中での創意工夫の集大成としての一つの動きだ。 その結果を真似たところで、又、体現できたところで一つの結果らしきことが出来たに過ぎない。 つまり、真似をした自分自身の中には初見宗家のような六十余年の創意工夫の時間がない、という事だ。

そして、その一つの体現されたものは、応用が全く利かないもの、つまり、それを真似た自分自身にとっては、新しい材料の一つに過ぎないのだ。 簡単な例でいえば、自転車というものを知らない人が、自転車の曲乗りの名人に、自転車の曲乗りの方法を一つ習ったのと同じだ。 したがって、自分自身の時間のとり方取り組みとして、自転車に乗れる、自転車を操れる、という事をまず体現化しなければならないという事だ。 その材料の一つ一つを大量に集め時間をかけ熟成された時には、ひょっとしたら初見宗家の入り口に近づけるのかもしれないが。

そこで、目に見えるところでの肉体運動として要素を拾いだす。 それとて、要素を拾いだす人間の、例えば私という特定の人間の考え方や身体認識でしかない。 つまり、先程のビタミンCだけを拾い出す危険性を持っているのだ。 それでは、私自身の場合として、この危険性を回避するには何をどうすればよいのか、だ。 それは、すこぶる簡単なことでもある。 一つは、私が拾いだした要素を「仮説であり絶対そうだと言切れないこと」だと認識すれば良い。 又、一つは、その仮説にそって誰かを育ててみれば良いのだ。

つまり、武術の武の字も知らない、運動能力も低い人、更に腕力も度胸も志も持たない人を、その仮説が持つ構造に沿って育ててみれば良いという事になる。 又、運動能力の優れた色々な人達に仮説を試し、仮説の実現の仕方などから、欠けていること、又論を組み建て直せば良いのだ。

もう一つ、もっと簡単な方法がある。 それは、この場合であれば、初見宗家に直接稽古を付けてもらい、自分の仮説を検証してみれば良いのだ。 しかし、問題は二つある、一つは自分自身が自分自身の作った仮説を体現しているのかどうかという重大な問題がある。 一つは、初見宗家の稽古をそして要素を体感できる能力があるのかどうかという問題だ。 つまり、論、言葉としてはいくら説明したり解析したり出来ても、それは全て「言葉」であり「実体ではない」という事実が目の前にあるということだ。 私達は、マスコミで活躍する愚にもつかない論だけを並べる「評論家」ではなく、実際に自分の考え方を体現して生きる、という選択をした人間である。 (詳しくは「こころの象」 を参照してください)

武道に「極意」はない!2

「武道に『極意』はない」、という武神館初見宗家の言葉を受けて、先月は、要素還元主義という考え方を元にその言葉を分解した。 それは、要素として「極意」という答えを先に作り出し、その答えがあたかも普遍的なものであるかのように論を積み上げる、という形式をもちいた時、「極意」はある、ということになるのが要素還元主義としての「極意」という事だ。 それを言い換えれば、答えを先に出し辻褄を合わせているに過ぎないのだから全ては架空のものだということになる。 そして、この場合の「要素は部分であり本質ではない」、さらに、その要素は一般化されたものだから、個体差の著しい「人」には全く当てはまらない、のである。 つまり、一般化されたものは、一般という架空の人にしか当てはまらないという事だ。

極意は「人の要素ではなく人の全人格的能力」である

初見宗家曰く「何事にもこだわっちゃ駄目です」と常におっしゃられている。

千変万化する実際を演武として見せて下さる初見宗家の言葉だ。 そして、その千変万化を「何もしていない」とも話される。 私はこの言葉から、「極意」と呼ぶものが有るとすれば、全人格的能力であり、それはどんな変化にも即応できる能力のこと、と仮説を立てる。 とすれば、ここでいう「極意」は、論でもなく何かしらの要素でもなく実体としての能力の事だろうと分かる。 とすると、この考え方の形式(要素還元主義)では「極意」というものが仮に言葉になったにせよ、辿り着くことは出来ないという事が分かるだろう。 なぜなら、論では一足飛びに、又、もっともな結論を得ることが出来ても、前編で例に出した宮大工のごとく「能力というのは自らの欲求と情熱をともなった時間の積み重ねによって培われるもの」だからだ。 しかし、それらの条件が満たされたからといっても獲得できるとは限らないのが能力だ。 だから「極意」だという事が出来るのかもしれないし、達人名人と呼ばれるに値するのだ。

ここでの単純な結論としては「何事にもこだわらないのが『極意』です」という言葉は、言語的に理解できても、そして分解できたとしても実体としてその能力をその場では身につけることは出来ない、という事だと言い切れるという事だ。 もう少し突っ込んで言うと「こだわらないという事にもこだわらない」という事だから、言語的にとか理解したというレベルではないことは分かるだろう。

話はそれるが、私はこの「こだわらない」という事を、ジャズをやっている時に気が付いた。 私は、「フリージャズ」という事にこだわり、それ以外の仕事を拒否し続けていた。 しかし有る時、「フリーとは何か?」という事を問題視した。 私がこだわっている「フリー」、それにこだわれば「フリーに居着いているだけで、フリーなのではないのではないか」、つまり、「私はフリーなのではない」という事に気が付いたのだ。 それは、「フリー」という音楽形式と、私自身の生き方としての「フリー」を明確に分からせてくれた問題だった。

武術の「術」だけを取り出せば、それは体操にほかならない

武術は、「武」と「術」に分けることが出来る。

「武」とは、昨年『武の存在意味』という章で書いたように、「武」は、自分の身を呈して護るべきものを守る、という動物と共通の「本能」に属するもので、それは生命と直結するものだ。

そして「術」は、武を表現する為の方法だ。 もしも、この分けられた「術」だけを取り出したとしたら、それは肉体運動としての体操ということになる。 しかし、現実的には「武」と「術」を分けることは出来ないし、分けてはいけない。 それは、人そのものの成長や感性、知性の成長限界を左右する「大志」そのものを否定することになるからだ。 何度も繰り返すが、「大志」のない「術」は肉体運動としての体操にほかならないのだ。 そういった意味において、武の本質を内包しない、つまり、「自分のため」に、という目的のために取り組んでいる「武術」は、「武術ではない」と断言できるのだ。

しかし、こんな例外はある。 それは、「術」という肉体運動を、肉体の仕組みや機能としてどういった要素で作り上げられているのか?を、運動としての本質探求を目的とした場合、「術」を分けて考えるのは間違いではない。 この場合は、「大志」の部分は個人に委ねているので、その個人のいかんによって「武術」になるのか「体操」になるのかが決まる事になる。ここでは「武」と「術」がすでに分けられた状態が大前提なのだから、ここで抽出された肉体運動としての本質的要素は「武術」ではない。 だからここで抽出されたものを、武術の極意、あるいは武道の極意と呼ぶのは「日本人でありながら日本語を知らない」というくらい馬鹿げたことなのだ。

種保存の遺伝子との矛盾が真理探究の「道」だ

さて、ここでいう武術の「極意」というもの、もしもそういうものが有るとすれば、それは、前編で説明した「あらゆる変化に即応し行動できること」だ。

それは形にすることが出来ない能力であり、その能力が「極意」という事になる。 では、その能力は何に根ざして生まれてくるものか?何のためのものなのか?だ。 それは、そう難しい問題ではない。 ここで言う「極意」を考える条件は「武術」と決まっているからだ。

話は少し横道に逸れるが、ここの「自分の身を呈して守るべきものを護る」が、何故本能と繋がっているのか『武の存在意味』を読まれていない読者には分からないだろうから簡単に説明しよう。 動物で群れを持つ種は、全て群れを守るという本能を持っている。 特にその群れのボス的存在のものは、そういった性質にもまして「強い」という能力を持っているという事だ。 同じように、人も群れを持つ、それは小さくは家族であり、社会の中で属する組織であり、大きくは国であり地球だ。 昨今、この種の本能に属する部分を、人為的考え方で崩壊させていっている。 つまり、「自己中心主義」という教育であり環境だ。 当然、遺伝子や本能とは相反する行動を取っているのだからそこに歪みが起こる。 つまり、遺伝子や本能と自分の考え方や生き方というところで、すでに歪みの原因を持っているのだ。 そういった捉え方が出来ない人間ばかりになり歪な社会になっていく、というごく当たり前の現象が今日の様々な事件がある日本という社会だ。 つまり、個人の意見や個人の存在は何を基盤として存在しているのか? 個人は何に属しているのか? という事を抜きにして、個人が個人的な意見を出してくるのだから、社会が無茶苦茶になって当たり前という事だ。

話を戻して、という大前提のもとに「極意」というものがあるとすれば、という事なのだ。 したがって、ここで言う「極意」の根本は、「いかに人を斬るか」であり、それを支えるのは種保存という本能に根差した「自分の身を呈して守るべきものを守る」という大志だ。 ここに、一つの矛盾が生じてくる。 つまり、「人を斬る」というのは種保存の本能に逆行することになり、「自分の身を挺して…」は、逆行するものではない、が二重構造としてあるという矛盾だ。 この矛盾に気が付き、それに対して真正面から取り組んでいくという作業が、いうなれば「道」という事だ。 この過程を行動を通して自分自身が踏んでいった時、まかり間違えば「極意」というものを得る可能性が出てくることもあるのだ。

そこから考えても、「極意」は物のごとく有るものでもなく、形として見えるものではない、と断言できることが分かるだろう。 そして、この根本的なところから考えた時、宮本武蔵が残した「五輪書」にある、 「一、五方の構の事  五方の構えは、上段、中段、下段、右のわきにかまゆる事、左わきにかまゆる事、是五方也。構五ツにわかつといへども、皆人をきらん為なり。……」 で言っている通り、「皆人をきらん為」のものであるので、それを極めれば「拘らない→だから、変化に即応できる」という初見宗家が実際として実感されている言葉にたどり着くことが分かる。 したがって、「五方の構え」という「術」の中に「極意」はない、と宮本武蔵をもって語られているという事からしても「術の中に極意はない」という事だ。

いかに人を斬るか?

これを問題にした時、達人が生まれた 武術の根本は「いかに人を斬るか」であり、しかしそれは種保存の本能に逆らうことになる。 もう一つは、「いかに人を斬るか」は、直接自分自身の生命と関わっていることに気が付く。 つまり、敵も「いかに人を斬るか」だからだ。 もちろん、そこに「自分の命が惜しい」という女々しい考え方が介在してのことではない。

生命は、すでに「身を挺して守る」というところで覚悟があり投げ打っている。しかし、ここで「個人」が顔を出し、リアルに「生命と向き合う」という作業に入る人も出てくる。 大きな合戦のようなものなら、さほど現実感を持たずとも人を斬ることが出来るが、決闘のように一対一で向き合わなければならない場合、この「生命と向き合う」という感覚が芽生えても不思議ではない。 しかも、何十回とこういった修羅場をくぐり抜けたずば抜けて強い人達は考えて当たり前だろうと推察する。 それを解決するために、宗教観が芽生えたり宗教的な行に身を投じた人達もいるだろう。

しかし、斬るか斬られるかの現実は、当時の既存の宗教以上に、又宗教家以上に「生命」が現実性を持っているので、宗教屋の口車に乗ることはない。 もっと、冷たく覚めた目で生命と向き合っているからだ。 いわゆる客観的な観察力をもって現実と向き合っており、尚且つ、自分自身は客観体として現実から離れるのではなく、自分をも観察の対象として捉えているという事だ。 宮本武蔵は「神仏尊べど是に頼らず」と言っているところからも、「事実凝視」の姿勢がよく見える。 そしてこの事実凝視が「変化に即対応できる」に結びつく非常に重要なキーワードだ。 つまり、「能力」に結びつくものだということだ。 宗教を超えた生命観は、仮に宇宙観とでも呼ぶほうが適切だろう。 つまり、ビッグバンが宇宙の誕生とするなら、そこから派生した様々な事実を事実として捉える中で、つまり、実際生活する日常での四季の移り変わりや様々な自然現象から、様々な法則性や周期性といったものに気付いていったからだ。 もちろん、その気付いたものの中には人の仕組みや心理、寿命、大きくは自然淘汰の法則なども含まれている。 だからこそ、自分自身の生命の存亡を宗教観無しに受け入れることが出来ているのだ。

そこで、種保存の本能の導くままに思考を巡らせた時、「いかに人を斬らずにすむか」にたどり着いたのだろう。 しかし、そこで相手に致命的な負けを認めさせなければならない。 でないと、単に戦わずに逃げるという事になるからだ。 「いかに人を斬るか」この命題が、逆に「いかに人を斬らずにすむか→そしていかに負けないか」にたどり着いた。 といった過程が達人と呼ばれた人に有ったのではないだろうか。

「技では有りません」が事実即応の近道だ

ここに来てようやく「武術」の「術」が見えてくるのである。

相手を斬らずに致命的な負けを悟らせる、という到底考えられない事を実際として表現するというレベル。 そこに初めて「術」という言葉の背景が有るのだ。 つまり、単純に群れを守るための技術というレベルから、個人として生命を直視し人と大自然の連動性を認識したという全人格的成長が作り出した技術を、ここで言う「武術」の「術」と呼ぶのだ。 つまり、日本独特の文化としての「術」と呼べるものだということだ。

単純に、群れを守るという技術は決して日本独特のものではない。 世界中どこにでも、とにかく国や民族という群れがあるところには存在するものだ。 つまり、そのレベルの「術」は、あえて「日本伝統の」という但し書きを入れなければならないほど特殊なものではない。 民族固有の、というところで言えば世界の民族固有の戦い方があるのだから並列で捉えられるものだ。 だから「武術」は世界中に転がっているし、発想の柔軟な国の人達の方が優れた技術を持っていることが多いのだ。 そして、常に他国の侵略を警戒しなければならない国の人達、つまり、私達が住んでいるのは幸運にも四方を海に囲まれ外国からの侵略とは昔から縁のない国、日本だが、侵略を繰り返す土壌を持つ国の人達の方が戦闘技術に優れていて当たり前だとも言える。 もちろん、現代においては軍隊という形式がこれに該当するのは言うまでもない。 というところから見れば、日本に武術など存在しないと『武の存在意味』の章で述べた通りだ。 だから、「日本伝統」と名乗るとすれば、つまり、世界に類のない特殊な文化としての「武術」とすれば、「人を斬る為のもの→いかに負けないか」という特殊な背景を持っていなければならないという事になる。 と、なった時「極意」という言葉は空気と共に消え去っていることが分かるだろう。 つまり、「極意」など存在しないのだ。

種保存の本能が「武」を呼び、そこから起こる対立現象、つまり、群れを守るという種保存から見た本流の中から「個人」として生命に真正面から取り組む人が現れ、その人が対立現象に疑問を持った。 そこから、事実を真正面で捉えるようになり、大自然の一部としての「個人」を悟った。 その人が日本でいう「達人」と呼ばれる人なのだ。 だから、そこには「技はない」、常に変化する「事実に即応している」に過ぎないのだ。 今述べたように、世界には「武術」が民族の数だけ有る。 しかし、ここで言う「個人を悟った」という、個人の質的な転換は存在しない。 だからこそ、初見宗家の元に多くの外国の人達が学ぼうと押し寄せるのだ。 初見宗家は「技ではないのですよ、そんなものは全部忘れなさい」と常におっしゃっている。 それは「事実に即応する」という事を実体として獲得するための一番の近道かもしれない。 「極意」はない、それは「全人格的能力」である。そこにたどり着くためには……。

武道に「極意」はない 3

群れを守る本能としての武術は、地球上に存在する民族の数だけ有る、というのは過言ではない。

それは、「生命維持・種保存」という本能に属することだからだ。 簡単化して言えば、外敵(侵略者)から身を守る(種を守る)という事だからだ。 そこから考えていけば、決して「極意は存在しない」、 なぜなら、外敵なのだから「自分の計り知れない敵が存在し、予期せぬ敵であるから戦う術としての極意(一定の形式や運動とすれば)等存在するはずもない(こちらの想定する戦い方や武器だとは限らない、拳銃が機関銃になりバズーカ、ミサイルと考えていけばたどり着く事だ)」と二号にわたって展開した。 そして、その「極意」というのは実体のない言葉だけであるという事も、要素還元主義という考え方を元に展開し、結論として「極意」とは「人の能力」だと仮説を立てた。

自分の持つ固定観念が「極意」を遠ざける

しかし、ここで肝心要のことがある。 それは、武術は「人との対立関係によって成立するもの」という大前提だ。 つまり、「種保存のために外敵から」という処での、外敵、つまり、対立関係に有る「人」という事だ。 そこでの、本能と個人の理性との葛藤が「対立関係を作らない→負けない」を作り出したのが、日本の武術史に残る達人と呼ばれる人である、と前号では締めた。 ここが現代において「武の存在意味」になってくるものだ。

人は錯覚する動物だ、だから「術」が成立する武術の特殊性

いきなりだが、何故、民族を超えて人類の娯楽の中に「手品」存在しているのか?だ(手品の起源ではない)。

それは、「人とは錯覚する動物」だからだ。 この事が「武術」の「術」に直接関わる重要な「人の特性」を解き明かす鍵だ。 又、怖い・悲しいに代表される「感情」も、切り離すことの出来ない要素の一つだ。 前者は、意識も含めた具体的運動を支配するもの、後者も、自分自身の行動を支配すると同時に筋肉運動も支配するため、自分自身が自分自身の手で克服しなければならない、という意味で「術」を具現化するに際しての重要要素だ。 これらが相互に絡みあって意識に変化を及ぼし、筋肉運動を硬着化させたり、逆に脱力させたりで「技が掛かったという状態」になるのだ。

つまり、こういった人の内的特性が人の運動を支配しているのだから、「極意」があるとすればここにこそそれを解き明かすヒントがあるのだ。 という処から言えば、「極意」という実体は現象として「ある」と言える。 つまり、現象としてはある、結果としてもある、というだけのものであって形としては「ない」という事になる。 又、その現象は「相手との兼ねあい」で「ある」ものだから、人それぞれの違いにより臨機応変に変わるものだ。 だから、一つの形として「ない」という事にもなる。

そして、ここで非常に重要なことは、常に述べている「相手との兼ね合いで(敵と戦う)」という事だ。 つまり、自分一人の「個人的能力(例えば、居合で剣を誰よりも素早く抜ける、とか、動きが素早い他)」といった事で完結するものではなく(実現するものではなく)、人との相互の関係で成立するものだということだ。 つまり、人間関係の中で発揮できる能力だ。 だから「事実(変化)に即応」であり、それを実現するための「こだわらない→発想を転換できる」という能力なのだ。

そこで、何故いきなり「手品」なのか?だが、それは手品も「人との相互関係で成立するもの」だからだ。 つまり、「人」というものの特性をどれだけ把握しているのか?そして、それを管理できるのか?が「術」を成立させる基盤となるものだから、その特性の一つとしての「人は錯覚する動物である」ということを認識しておかなければならないという意味において、一番一般的な対象として「手品」を出してきたのである。

さて、何故「人は錯覚するのか」だが、それは「判断する」という思考や、自分自身の「目的に対する方向性」が有るからであり、それを支える体験的蓄積、それを自分自身の観念にまでクセ化した、いわゆる固定観念や既成概念、自分自身固有の価値を持つ動物だからだ。 そういった諸々の観念や概念を覆されたとき、もしくは、許容幅を超えられたとき、人は錯覚するのだ。 又、自分自身の単純な思い込みも、錯覚の原因になる。 そういった、前頭葉系列に支配されているのが人間だ。 この基本的なことを押さえておかなければ、「武術」は単純な筋肉運動や筋肉鍛練という肉体運動的な考え方で捉えてしまう間違いをおかす事になる。

世界の第一級の手品師のテーブルマジックを見ていると、本当は超能力か何かではないかと思ってしまうほど感動する。 それは、手品師である、そして、その手品を観る、という設定があり、その職業のスペシャリストだと分かっているから「手品だ」と思えるのであって、そういった手品に全く白紙の状態の人が居るとすれば、その人にとって手品は神懸かり的な不可思議な現象だと思うだろう。 現にその昔は古今東西そう思われており、特に宗教者や宗教的な儀式に用いられてきた(もちろん、錯覚ではなく純粋に不可思議な現象もある)。 つまり、いにしえの昔から「人は錯覚する動物である」という事を、言葉こそ違え認識されていたのだ。 現代においては、テレビを始めとして様々な場所でショーとして多くの人を楽しませてくれるのだが、それは、私達が手品だと知っている、という大前提がある。 つまり、我々は手品師に錯覚させられているのだと知っているという大前提だ。 にも関わらず、見事に罠にはまりそれを喜ぶ。

ここで分かることは、「錯覚させられていると知っている」にも関わらず「錯覚させられる」という点だ。 つまり、「知っている」という事と、実際として「錯覚させられる」という現象は関係していない、したがって「知っているから錯覚させられない」、というものではないという事だ。 この事は「知っている」という事と「出来る」という事の違いと同じ質のものであり、「知識と知恵」とも同質のもので、人は往々にして間違いやすい。 これを間違うと、自分の人生を間違うと言っても過言ではないので呉々も気をつけて欲しい注意点の一つだ。 「知っているから錯覚させられない」が何故起こらないのかは、先に記した「自分自身の判断という媒介を通してしか、我々は物事と接していない」からだ。 だから、下手な手品師と上手な手品師の違いは、手先の技術は別にして、錯覚させるための話術や動きが出来ているのかいないのか、という事になる。 そういった点から言えば、武術の「術」とはこの点で共通する。 中でもイリュージョンと呼ばれる大掛かりな道具を使ってのものより、テーブルマジックと呼ばれる客を目の前にして行う手品が共通する。 いくら目の前で種を明かされても錯覚してしまうのだから。

「一緒に動く」それが錯覚を誘発する

しかしその実現は果てしなく遠い。例えば代表的な例として、初見宗家に対して例えば突きを出すとしよう。 その前に、突きを出す人が立っている位置をA点とした時、そこから初見宗家の立っている場所までの距離があり、それは、一歩でたどり着くのか二歩なのかは別にして、ある距離が存在する。 相互の関係での難しいところはここだ。 つまり、相手の立つ場所は、初見宗家から見て常に一定ではない、という不確定なものだという事だ。 そして、その距離から初見宗家の場所を目がけて行く速度も一定ではない。 更に突きの速度も一定ではない。 突く場所もおおよそ顔面では有るが、決まってはいない、という不確定なものだ。 この点だけを考えても、これに対処するために作り出されたとする、ある一定の肉体運動をさして「極意の運動」というのは間違っていることが分かるだろう。

さて、こちらが初見宗家に対して動き出し突きを出す。 その時に、初見宗家は「動いているような、動いていないような」という「判断しにくい」現象を作り出す。 いうならば、こちらの速度、例えば、車で時速四十キロで走っているとすれば、その横に全く同じスピードで走っている車があったとして、その車を見たとき奇妙な感覚に襲われたことがないだろうか?それと似た感覚を覚えるのだ。 その奇妙な感覚こそが「極意」の要素の実体の一つであり現象の一つだ。 この場合であれば、自分の横ということで、逆に言えば、相手の車と同じ速度で運転し並ぶ事は運転技術の範囲で可能だが、例えば自分の正面から速度を認識できない車が走ってきたのに対し、それと同じ速度で、つまり、一定距離を保ったままバックするという技術が、ここで言う初見宗家の動きの一つだ。 それが初見宗家がおっしゃる「相手と一緒に動かなければ駄目です」の難しさだ。 もっと言えば、物理的に一緒に動くという事だけではなく、意識も相手と同じように動いているのだ。 だから、そこで錯覚が生じるのだ。 こちらと同じように初見宗家が動く、その事によって自分が初見宗家に向かって進んでいる速度を勘違いする。 同時に、初見宗家の意識も、こちらの攻撃を避ける意識で動いているのではないので「初見宗家は、そこに在る(一緒に動いているから動いていないように見えてしまう)」と無意識的に判断(選択)する、だから、「そこに在る」宗家を目がけて突きを出してしまうのだ。 無意識的な「判断(選択)」というのはここで言うように厄介なものではあるが、逆に便利なものでもある。

例えばこの時、宗家自身の中で「避けよう(動こう)」という意志がチリほどでも頭をよぎれば、この「判断(選択)」は瞬時にそれを察知し、宗家の罠にはまることを防ぐ事にもなるのだ。 しかし、絶対にそういった状態を作りださない、というところが「達人」の達人たるところなのだ。 結果として初見宗家はこちらと同じ速度で動いているので、こちらが宗家のところにたどり着いた時には、すれ違ってそこにはいない、もしくは初見宗家の罠にはまっている、という事になる。 というように、動きの一つの例を経過として文章化すればこういったようになるのだが、残念ながらこれはあくまでも言葉であって実体ではない。 つまり、もっと膨大な情報交換がその瞬間には行われており、だから、錯覚し、初見宗家の動きに対して変化が効かなくなるのだ。

何故「一緒に動けるのか」、その鍵は入り口にある

「極意」の実体は、こういった現象として見ることが出来るものではあるが、それは相互の関係においてのみ現象化するのであって、個人の肉体運動技術として独立してあるものではない事が理解できるだろう。 そういった意味において「極意」を鍛練することは出来ないし、そもそも「極意はない」という事だ。

この一つの例の「一緒に動く」にはもっと難しい点がある。 その難しい点は、この例だけのものではなく「敵と対峙する全ての場合」に共通することだ。 それは「一緒に動くには動き出しが同じでなければならない」という、言葉で言えば至極当たり前のことが、この大前提としてある。 武術はスポーツ競技ではない、したがって対峙してヨーイドンで始まるものではない、という前提がある。 その中で、相手と同調しなければならない難しさだ(道場での稽古は、流派やジャンルの違いがあっても、大方の場合、スポーツ競技のようにヨーイドンで始まる。 その稽古だけでは歴史に埋もれた『達人』の能力を垣間見る入り口に立つことすら出来るはずもない。 もっと言えば、ヨーイドンすらも自覚されていない場合がほとんどだが。)

肉体運動的にはよしんば同じになったとしても、意識が相手と同調していなければならないという難しい点がある。 相互が同調しているからこそ「動いていないように見える」という錯覚が誘発されるのであって、具体的肉体運動として動きが同じになったとしても、同調していない場合は先程の「判断(選択)」が相手との違和感を感じ取ってしまうのだ。 つまり、錯覚は誘発されず、逆に相手につけ込まれてしまうという結果になってしまうということだ。 この「差」が実力の差ということだ。 という事は、勝負は入り口でついてしまう、という事になる。 だから、この入り口での同調の取り合い、もしくは判断(選択)を誘導する主導権の取り合いが勝負そのものだと言えるのだ。

初見宗家が行う演武の複雑さに頭を抱えている外国の人達に宗家は「別にややこしいことはしていません、入り口をやっているだけですよ」とおっしゃっていた。 その入り口とは、ここで言う「相手と対峙した瞬間」という意味を含んだ武術とは何たるかの入り口なのだ。 頭を抱えるのは「見なければならないもの、もしくは、自分が見ようとしているものが間違っている」という事だけなのだが、それこそが、それを選択している自分の人間的実力であり人間能力だ。 当然のことなのだが、誰にでも理解できることが目の前に在るのではない、つまり、初見宗家の何たるかが見えるはずも理解できるはずもないのだ。

ピカソの絵を展示してあるところに行けば、誰にでもピカソの絵を見ることは出来るが、ピカソの絵を理解(知識ではなく)できる人間はほとんどいない、というのと同じだ。 同じように、誰にでも油絵のセットを買えば油絵を描くことが出来るが、誰でもがゴッホになれるものではないというのと同じだ。 だからこそ達人だということを抜かしてはいけない。 したがって「達人とは」を、現在の自分自身の延長線上に置いたとき、「達人とは」は何も見えてこない(クリアすべき問題点が見つからない)し、たどり着くというのは幻想の中の夢だという事だ。

「極意」は「達人」だという事

この「相互の同調」という考え方は何に根差しているのか?だ。 この「同調」という考え方は、世界のどこにもない日本独特の考え方だ。

それは、この民族独特の自然に対する観察眼、自然との共存関係そのものの考え方だ。 太陽が朝昇る、夜が来る、風が吹く、雨が降る、季節が移り変わる、地震がある、火山が爆発する、洪水がある、津波が来る他、といった常に移り変わる自然現象という事実を、何の固定観念もなしに受け入れたとき、つまり、人知を超えた自然の営みに対抗・対立するのではなく、又、一定の価値を決めるのではなく共に同じ価値としてあるもの、「仕方がないもの(諦め、受動的なものではない)」として受け入れるという概念を持ったとき、そこに初めて「共存(自然との)」という現象が実現できるのである。 その共存を支えているのがこの「対立・対抗しない(自然と戦って制圧するという西洋的なものではない)」という考え方だ。 この「共存」が「同調」を作り出した考え方だ。 それは、一つの考え方というものではなく、事実を事実として捉え(正面に向かう)その事実の中にある法則性などを紡ぎだす力を持つ直感的なものだ(拙著『武学入門』でも触れている)。

その力が達人の根底を支えており、だから、同調であり負けないにたどり着くのだ。 こういった事が「達人」の根幹であり能力だ。 つまり、「極意」というのは、そのまま直接「達人」という事になり、当然、「術」という分別的な考え方ではたどり着くことも、周辺を触れることも出来ないのだ。 「極意」は「人の能力」であり、日本人の特殊な自然観に根差したものだという事だ。 初見宗家はおっしゃる、「私は自然を教えているのですよ」と。

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