自由に生きると迷子になることもある
この76歳まで生きていると、自分で自分の居る地点が分からなくなる。
会社勤めをしていたり、店舗でもかまえて商売をしていれば、まず迷子になる事は無い。
思い付きだけで生きているからこその迷子なのだ。
今日、羽田から東急に乗って発車を待っていた。
お年寄りが、扉の上の路線図を眺めては、向かいに止まる電車を比べるように見ていた。
「何をしてるんやろ?」と思ったが、さほど迷った様子も無いので静観していた。
お年寄りは眺めるのを止め、電車内の座る場所を探すように見えた。
私が「大丈夫ですか?」と尋ねると「これは東日本橋は止まりますか?」と聞かれたので「大丈夫、これは止まりますよ、向かいのは止まりませんよ」という話で、何やら弾んだ。
聞くと「大阪や、岸の里や。あんたは」「俺、天王寺」という事で一挙に距離が縮まった。
80歳の老女だった。
こざっぱりしたみなりだったので、現役で仕事をやっている方かな?と思った。
本当に盛り上がり、私の本を欲しいとおっしゃったので、今度送りますと答えたが話が止まらず、駅まで来られお茶を飲むことになった。
何でも今はリタイアされており、事業を6つくらい起ち上げていたそうだ。
「商売は勘だけ、『これや!』と思ったらやる!」
大阪のおばちゃんはシンプルで良い。
本を渡し、次の道場迄心配してくれ、お知り合いの不動産屋さんまで紹介してくれた。
一寸したキッカケが、どれだけ時間を豊かにするか分からない。
「銀座に住んでるから、今度3人で食事に行きましょう」だそうだ。
実際として、一寸したことに引っ掛かると、今の道から逸れ迷子と言えば迷子になったとも言える。
しかし、迷子といっても行き先が分からないだけだ。
細かい事には、目的も明確にあるが、その先など考えた事もないので、言わば生きて来た間中、迷子だったということだ。
迷子であろうが無かろうが、この年齢には実際に達しているという事だ。
この「迷子」だと言い出したのは、「武道」を日々考えるからだ。
考える事で、その問題は解決するが、そこに新たな問題を2.3個見つける。
そうすると、それを考えなければならなくなり、その連鎖で迷子になるのだ。
何度でも、問題にするのは「何が?何を?」武道と呼ぶのか?だ。
もちろん、私にとっては世間がどう解釈してようが、伝統を受け継いだ人達がどう解釈してようが問題ではない。
それは、私が探求しているのは、古典の流派でもなければ、古典の型でもないからだ。
「技」そのもの、そして、その技を体現出来る人の「境地」、それを実現していたから「達人」と呼ばれた、その達人そのものを探求しているからだ。
もちろん、それは「幻の」という事になる。
現代に生きる人は500年、600年前にいきた達人を誰も見た事が無いし、それ自体不可能だ。
そこで、その手掛かりになるのが残された文献というか、言葉の数々だ。
しかし、伝統を受け継いだ流派は沢山あるではないか?と思われるだろう。
もちろん、本場日本だから、履いて捨てる程流派ある。
しかし、だからといって何が伝承されて来ているのかは分からない。
そして、時代背景によってそれらは流動的に変化する、というのも伝承を分からなくさせる原因の一つだ。
しかし、言葉は変化しないし、その当時のものだ。
だから、そこを探求するのが一番だと思ったのだ。
例えば、五輪の書に「構え有りて構え無し」の教え、とあり、有構無構と云うは、太刀をかまゆると云う事あるべき事にあらず。」と続く。
これらを実際に即して考える。
実際に即してというのは、例えば木刀を構え、あるいは空手の分解組手を使って、組討ちではどうなるか、というような事を忖度無しで探求していくのだ。
私にとっては、それが「本の読み方」だからだ。