マイルスとジョンが
マイルスとジョン・レノンがどこかのパーティで一緒だったそうだ。
2人が談笑したりバスケットをしている動画がアップされていた。
もちろん、そんな事もあるだろうし、だから?でもあるだろう。
でも、どちらも同時代で知る私としては、「オオ~凄い‼」となる。
何が凄いのか分からないが。
なんだかんだで、一瞬でファンの自分になるのだろうと思う。
マイルス・デイビスとジョン・レノンがバスケットボールを楽しむ激レア映像 1971年 - YouTube
マイルス・デイビスとジョン・レノンがバスケットボールをする激レア映像 http://japa.la/?p=42806 撮影:ジョナス・メカス
この頃(1971)、マイルスのビッチューズブリューを買って、私自身のアイディアと重なっていたのに驚いていた時期だ。
阿倍野の場末のキャバレーで、店が終わってから練習をしたものだ。
この時期が私のフリージャズを形作った過渡期だ。
法竹(ほっちく)を知り、武満徹を知り、シカゴAACMを知り、セシル・テイラーを知り、そしてこの時のマイルスだ。
前衛芸術が一番輝いていた時代だ。
演劇もダンスも音楽もだ。
私達の演奏スタイルは、やたらと過激になっていった。
もちろん、それはきっと無茶苦茶だったのだろう。
シェーンベルクの12音技法を知り、理論武装を完璧にしていった。
だからこそ、そういった理論をぶち壊す演奏だった。
コンサートで観客が拍手をくれる、アキラ~と叫ぶ、ボケ~黙っとれ、と怒鳴りながら演奏していた。
エネルギーが有り余っていたのだ。
誰にも管理されていない音だから、それこそ角がとんがり、ささくれだっていた筈だ。
そんな野生の時代は懐かしい。
大阪のある大学で行われた、現代音楽祭にゲストで呼ばれ暴れまくった。
丁度、もう亡くなった女優の沖山秀子さんが、ジャズ歌手に転向し、私とのコンサートの為に私の音を聞きに来てくれていた。
取り巻きは、若手の映画関係者だった。
いずれも「熱い」連中だ。
私達(T.sax,Bass,Durm)の演奏が山場を迎え、思い切り熱く熱くなった時、その映画関係の誰かが、バケツに水を入れ私の頭からぶっかけた。
何でもありだが、それは私達だけで現代音楽の世界には、無い事だった。
半数の観客はドン引きだったのではなかったかと思う。
演奏は燃えに燃え終わった。
しかし、パンクバンドやプログレの連中で、私達のファンが沢山いたので、彼らや沖山さんサイドが盛り上がっただけだった。
それこそ、そんな場違いの場で演奏する、勝負するのが、ほんとに面白かった。
客はそうして獲得したものだ。
今の様に、youtubeや色々な情報メディアで発信する、というようなものは何一つ無かったから、知って貰うにはこれしか方法は無かったのだ。
もちろん、私達のファンの何十倍も何百倍も、私達を嫌う人はいたと思う。
そんな事を気にした事は一度たりとも無かった。
とにかくとんがっていて、前に進む、それだけしかなかった。
しかし、今から思えば「前とはどこのことだ?」だ。
だが、とにかく前に進んでいった。