自己完結している人生に気付け!
息子が修理を手伝いに道場に来ていて、今朝埼玉に戻った。
一人でする作業と、二人でする作業は天と地ほどの差がある。
倍以上の進展があるのだ。
ほんとつくづく「一人で成せる事は個人的な事だけ」だと思う。
息子は自衛隊にいたので、「動く」ということや「気付く事」に長けている。
だから作業が捗った。
一人より二人が良いのは確かだが、動けない人がいるならいない方がましだ。
屋根の作業から、台所付近の床修理まで、どんどん作り上げていった。
肝心の屋根、軒そのものには手を付けていないが、それは一人でも作業が出来る段取りは付いた。
後、人が必要なのは、大きなものを動かす時と、屋根を一挙に作り変える時だ。
といってる間に、「武禅一の行」の秋バージョンが、埼玉の秩父のペンションを借りて出来る事になった。
楽しみではあるが、初めての場所なので心配もある。
「人間関係」は、人間の集まりの中で実践でしか作れない。
というよりもそこでしか「自分に気付くことが出来ない」のだ。
こればかりは研修や講座で、机上の知識や学習では、頭が理解しても実体としての自分自身の気持ちが「行為」として動かす事は出来ないのだ。
頭は「理解した・納得した」という時点で、実際の行為へのアイディアも「理解した」となってしまい、一番大事な「自分自身を気付くこと」にならないのだ。
研修や講座は「理解を目指している」が、実際の生活では「どうして?なんで?」という疑問が生活や日常の質を向上させるという違いがある。
ここを理解していないと、頭でっかちだけで関係の実際を気付けない、つまり、他人を直感的に感じられない人生を歩くことになる、なっているのだ。
判断優先、理解や言葉優先の人は、「自分自身に気付く・他人を気付く」のは難しいということだ。
そして、ここに大きな問題が含まれている。
それは、他人を気付けない、自分自身に気付けないのだから、自分が他人に発している言葉が他人に届いていないという事は分からない。
そして、他人からの言葉は理解できるが、そこに含まれている気持ちや思いやりを体感出来ないのだ。
つまり、すべては「自己完結」させているだけで、「関係」などどこにもないという事だ。
人生そのものが「自己完結」、つまり「私はやった・やっている」だけの人生なのだ。
「武禅」で、組んだ相手の人に後ろから「呼びかける」というワークがある。
誰も、組んだ相手を呼び止められない、つまり、自分は「相手を呼んでいない・相手に声をかけていない」のだ。
ただ、やみくもに「声を出しているだけ」なのだ。
人同士の関係と言うのは、間違いなく「気持ちの交換・感情の交換」であって、理解しあうだけのものではない。
そんな実際を体感出来るのは「武禅一の行」しかない。
受講者が裸で向き合う、裸で向き合える空間は唯一「武禅」だけである。
11月1,2,3日「武禅一の行」スタートです。



