ルーティン化した日常を行為しているだけやろ?
あっという間に秋、10月だ。
暑すぎた夏が長すぎだったから、突然「秋」という感じになったのだろう。
息子との作業やスズメバチ退治も終わり「武禅一の行」の最終的な宣伝になった。
後6人空席があるので、そこを埋めたいのだ。
日曜日は久しぶりに「武道」の稽古だった。
攻めと受けの実際には、単純そうな動作でも2手から3手4手と手順がある。
大方の人は、1手が終わる前に2手に頭が動いていて、完全な1手にはならない。
そうすると、2手目も不完全な動きになるし、1手目からの連続性は消えてしまう。
仮に体重を移動させる事だとすると、体重は移動せずに浮いてしまうし、止まってしまう。
手順がいくらあったも、「その1手」があるから「次の1手」があるという事を深く認識する必要があるのだ。
そして、身体の動きの流れとして考える必要がある。
逆に言えば、その手順の逆順から身体運動を考えてみるのも、身体感覚の錬磨にとって重要な稽古になる。
その意味で「型稽古」が必要なのだ。
武道の稽古で生徒達を見ていると「どうして?」と思わせられる事が多い。
その一つが、メリハリがない事だ。
もちろん、言葉で「皆、メリハリが無いで、もっと明確に」と指摘すると、「ハイ」というし言葉としては理解している筈だ。
で、次の行動を見ていると、注意前と同じでメリハリがない。
何一つ変わっていない。
たった今「ハイ」と言ったのは何だったのか?
もちろん、皆はなにもしてないのではなく「自分なりに」取り組んだのだ。
しかし、その事が私には見えて来ないのだ。
それは、日常的に「理解した→出来る」と無条件でなっているからだ。
そこを突っ込んで来る、身内や友達を持っていないのだ。
俗にいう「ほんとの友達や親友をもっていない」のだ。
だから、その「自分なり」、それは「自分が思い込んだだけ」であって、自分の行為に対しての客観的検証がないからだ。
もっと根源的に言うと、「日常でメリハリを付けて」という行為をしていないという事だ。
メリハリというのは、単純には「気持ちの切り替え」だ。
例えば、日曜日は休みで月曜日は仕事だとすると、「よっしゃぁ、仕事だ!」という切り替えの気合いがあり、仕事に向かうという事だ。
つまり、メリハリを作る気持ちの切り替えがなく、ルーティン化した日常を無機的に行為しているだけだといえるだろう。
何それ⁉
私ならそれは嫌だ。
少なくとも私はロボットではなく人間だから。
多くの人を見ているが「どうして自動車でギヤーを変えたように変化しないのか」を考える。
と、結局、その人の日常に辿り着き、この「気持ちの切り替え」を意識していない生き方、時間の過ごし方をしているので、「気持ちの切り替え」を考え方として持っていない、あるいは、育っていないのだ。
根本的には気持すら育っていないのだ。
そして、この「気持ちが育っていない」というのは、言葉が相手の人に届かないとか、相手の話を聴けないに繋がっている。
もっともっと、根っ子を考えると、自分自身が明確に「これ」と決めて過ごしていないのだ。
この人に話す、どうしてもこの人に話したい、この人に聴いて欲しい、この人の話を聴きたい、この人と気持ちを通わせたい、という会話やほんとの関係や信頼関係が築けない事でもあるのだ。
ほんとの関係や信頼関係が築けない自分の人生では、一人でルーティンの中歩いているだけで、変化も進化も成長も関係も存在しない。
それらは、自分の頭の中の単なる言葉であり、思い込みの世界の中でしかないのだ。
「先生に歌を聴いてもらった時、力みがなくなったと同時に、涙が込み上げて来た。なんなんだろう、、、不思議。こちらが、委ねても良いというような感覚になった。私も聴ける人になりたい!!」「自分が相手を壊していると先生に指摘され、相手に申し訳なくて、日頃から相手に失礼で馬鹿にしている事をしてしまっていると、自分自身が情けなくて愚かで悲しいと感じた。真剣に自分を変えて行かなくては!変えなきゃいけない、変えてやる。」
確かに人に話す、話を聴く、複数の人に話す。
これ等は、他人と真剣に向かい合う事、自分自身と真剣に向かい合う事でもあります。
人に自分の気持ちや声を届けるのは、相当なエネルギーが必要ですが、大方の人はそのエネルギーが不足し、言うならば省エネで生きています。
そこに輪を掛けているのが「感情的は駄目」という風潮であり考え方です。
だから、オカシイ事件が多くなっているのです。
人が関係する繋がるのは、間違いなく「感情」なのです。
サッカーや野球他スポーツの選手や応援を見ていると、熱くなるでしょう。
それが感情であり、それが動く感動なのです。
その意味で先程の「先生に歌を聴いてもらった時、力みがなくなったと同時に、涙が込み上げて来た。なんなんだろう、、、不思議。」が起こるのです。
「武禅一の行」を後何回出来るか分からないが、元気な限りこういった人生を生きる上で重要な能力を伝えて行こうと思っているが、それはどうなるか分からない。
11月1.2.3日 111回「武禅一の行」



