量が必要だと考えがいった時、量が必要だ
熊野も連日雨だ。
その天候に負けず、裏というか谷側に植えた金木犀が甘い香りを発してくれている。
この金木犀は、近所の家でも育てている。
それは一階の屋根を超えて、相当大きな丸に育っている。
道場の金木犀もそれくらいにはなるだろう、という感じだが、その内に剪定しようとも思う。
どんな事でも量が必要だと、私は言う。
それは、「量が必要だ」と自らが考えるようになってからの話だ。
そこまでは、遠回りなるが強制的に量を熟す事だ。
その事で、何かしかのエンジンがかかる可能性があるからだ。
そして同時に「耐久力」が付いていくから、本気になってから集中力が途切れ無くなる。
しかし、どれだけ考えても合理的な稽古法は見つからない。
それは、個人個人が全部違うからだ。
違うというのは、その事に対して持っている情熱の熱量だ。
それと、学び取るという事への合理的な考え方を持っているか否かだ。
どこまで行っても、結局はどんなことでも考えなければ乗り越えて行けない。
だから、そこにたどり着けるセンスの有無も大事な要素になる。