パリ朝7時30分から稽古開始
パリで朝7時30分からワークショップだった。
午前中に2コマやってしまおうという企画だ。
受講する人は、お仕事がある筈だから、そうは集まらないだろうと思っていたら、何と定員を決めて募集したそうだ。
それでも30名程の方が受講してくれていた。
改めて思うのは、所属する流派も無く当然研究に歴史も無く、単に個人が昔日の達人を研究して来ただけなのに。
そして流派もジャンルもないから、いくらワークショップに通っても師範になれることも無い、純粋に武道という文化に興味を持ってくれて居る人だけが集っているのだろう。
と思いたい。
もちろん、例えば合気道を修行していて、あるいは空手、または柔道他、という他のジャンルの事をやっている人が、特定の目的の為に受講している人は沢山いる。
今日は、イスラエルで5年前から私のワークショップに行く機会を探していたという人が挨拶をしてくれた。
嬉し過ぎる話だ。
そんな人にも「おっさん、何考えてんねん」と思わず突っ込むのが私だ。
レオさんの奥さんの静香さんが、途中から道場に来られて「何か普段よりも穏やかな感じですね」と喜んでいた。
もちろん、難しい話もするが、実際として私の体重の2倍や3倍の人を投げ飛ばすのを目の当たりにすると、空気も和むというものだ。
「77歳の年寄りだよ」77歳と認知症を売り物にしているから、場は緊張しない。
私が好きで研究しだした「武道」、当初は「強さとは」を求めた。
しかし、時間と共にその「強さ」が霧散した。
それは、当初の「強さ」からその意味するところが、どんどん昇華していき「人の強さとは」になってしまったからだ。
その視点から見ると、身体的な動きから発揮される強さは消えてしまう。
それよりも、精神的な強さ、気持ちの強さが人生や、自分をどう生きるのか?にとって大切な要素だと気付いていったのだ。
何かを全力で一生懸命にやる。
それが将来どんな事になるのか、そんな事をどうでも良い。
というよりも、そんな事に時間を割くのは無駄だし、邪魔な思い込みだ。
それがあると「一生懸命にやる事」がそうはならないからだ。
私は、私だけの喜びとして、「武道」を研究して来たが、それは結局「武道を生きて来た」つまり、武道で気付いて来た「技」や、その考え方そのものを、活用しながら生きて来たということになっていた。
「生きる」ということは一生懸命に、ということ以外にはない。
そこに「そう生きてどうなるのか?」というような、屁理屈や回転力の悪さを助長する屁理屈は止め、生命そのものに戻る必要があるのだ。
というのは、その一瞬は、明日になれば過去で記憶の中にしか無いモノだからだ。
それこそ「いまだけしかない」今だから、一生懸命に目の前の「それを」しか無いのだ。
「武禅一の行」は、その「それを」「いましかない」の連続を体感し、生命感を取り戻す為にあるのだ。
