一瞬を判定し駄目だし、でもそれは完全でもある
例えば、ワークショップで何かしらのデモをみせる。
あるいは、武道の為にデモを見せる。
「明鏡塾」でデモを見せる。
受講している人や、参加している人からみれば、私がデモとして見せたものは完全だと思ってくれている。
筈だ。
しかし、完全な筈はない。
その筈はない、と「感じ取っているのは私だ」からだ。
もちろん、それ等のデモに手本や、何かしらのイメージを持っていて、「その事と比べて」というものでもない。
そのデモを見せた瞬間の私自身の体感から、「駄目だ」と判定しているのだ。
もちろん、それを見ている受講者や参加者の方々から見れば完全な手本だ。
私は、私の瞬間に対しての判定から成長の為の問題を探している。
だから常に「完全なのだが、完全ではない」のだ。
その意味で「出来た」は即「〇〇は駄目」になる。
だから私は面白いのだ。
見付けられる私がある限り「キリがない」。
それがいつの間にか楽しみに変わってしまったから、延々と続けられているのだ。
だから、私として面白いのは、例えば武道で体重移動を要素とした動きを一つ見せる。
それを受講生は見て真似る。
受講生が真似ている動きを見て、要素を改めて検出し、もう一度見本を見せる。
その見本は最初に見せたものとは違っており、要素が整理されていたり、動きが整理されていたりする。
受講生は改めてその見本を見る。
それをまた私が見る。
その都度何かが整理され、私の完成度は高くなって行くのだ。
受講生泣かせの見本だ。
こうなるのは、一回一回自分自身を検証し、より合理的な動きに持って行くからだ。
そうなると、一番最初の見本は何だったのかと、自分でも思う。
大笑いだ”
110回「武禅一の行」は、5月3.4.5日です。
沖縄ワークショップは5月30.31.6月1日、
夏の大阪ワークショップは8月1.2.3日です。
