大阪ワークショップ終了!次は夏や!
月曜日、歯医者を回って、道場に帰った。
疲れが溜まっている時はメガシャキは効かない。
和歌山のサービスエリアで、瞬間的爆睡で回復させた。
そういえば、以前もそんな事があってサービスエリアで寝た。
今回のワークショップは、大阪のワークショップとしては、最高の雰囲気だったのではないかと思った。
常に笑いがあり、緊張感もあった。
それは、「いじられ役」になれる人がいたからでもある。
しかし、その人は「いじられ役キャラではない」。
でも私が常に絡んで行くと、どんどん良くなっていった。
良くなっていった、というのは、会話が噛み合っていない事が、目立つようになってきたという事だ。
それが目立つようになると、皆の笑顔が増える。
ここが大事なところで、会話が噛み合っていないのは、私とその彼ではなく、「私と皆」だ。
その事に時間と共に皆が気付き、皆が考えられるから、この突っ込みや絡みが大事なのだ。
突然、話を変えるが、私はもっともらしい言葉が大嫌いだ。
もっともらしい言葉は、別名正論ともいう。
これは昔々から大嫌いだった。
それは、誰にでも言えるし、どこにでも書いてあったり、もっともらしいのが好きな奴が話しているからだ。
最近では「感謝するように」とやたらと話す輩がいる。
感謝は、人間として当たり前の心情であって、改めて言うものではない。
また「感謝」という言葉を出すものではない。
出すのは、その心情を持たない人間だからだ。
感謝の心情は「ありがとう」だったり、「すみません・こんにちは」だったりの中あるものだ。
そして、ふるまいの中に含まれているものだ。
初めて「感謝」という言葉を大上段から聞いたのは、残念な事に私の友人からだった。
「こいつはアホやったんか」と残念に思った事を思い出す。
そんな事をふと思った。
どんな「場」でも、そういったある種ムードメーカーになり得る人が居る事が大事なのだ。
その人を介して、本気で本質を言う事が出来るからだ。
他の人は、その人がクッションになるので、本気の当たりが柔らかくなるので受け取り易くなるからだ。
そういった「場」が出来ている時、ほんとに全体はうまく動く。
沖縄の場合は、無意識的に人との距離が近いので「いじられ役」はいらない。
皆に対して「いじれる」から、相当強烈な事を言っても笑いになるのだ。
