身の程を知っているのか?
「手応えがあった」あるいは「手応えがなかった」そんな言葉をよく耳にする。
「明鏡塾」でだ。
私自身がその「手応えがある」だの無いだのという言葉を持っていないので、その言を使っている意味も使い方も分からなかった。
もちろん、分かりたくもないから分からないままだ。
その言葉を耳にするようになってから、少し考えて見た。
極端に言うと「手応え」というのは、その人の過去の蓄積だ。
つまり、自分にとって新鮮な刺激ではなく、昨日の刺激の事を「手応え」というのだ。
もちろん、私程の年齢になりこの先に新しい事が無いとふんぎったら、「手応え」なる言葉を使うかもしれない。
しかし、それはない。
まだ先があると無意識的に思い込んでいるから、その言葉自身を持つ気にもならない。
しかし、過去の蓄積で求めている場合もある。
それは、自分の成長と何の関係も無い事柄の時だ。
「明鏡塾」の場合、手応えという言葉の使い方は間違っている。
それは、それまでの自分の価値観に無い事を体験しているからだ。
何から何まで、その人にとって新しい事なのに、自分の感覚で処理しようとする。
ま、大方の人の癖はそれだ。
しかし、もしその過去の産物である「手応え」に拘っていると、もちろん自分自身は進化や成長などしない。
というように考えないから、成長のスピードが鈍いか、成長しないかだ。
もちろん、それらは自分で選んでいる事だから、他人が口だす事ではない。
私自身が「手応え」という言葉を持っていない理由は単純だ。
その言葉を誰かから習っていないし、自分で求めていないからだ。
もっと言えば、身の程を知っているからだ。
つまり、「手応え」と話せる身ではない、まだまだ未熟な自分を知っているからだ。