その場の「出来る・出来た」はどう?
今回の「武禅レポート」に、私にとっては不思議な言葉が書かれてあった。
不思議な、というのは、それこそ、私の辞書には無い言葉だ。
それは「やり続けるという事をしていない。一時的な「出来る」から、身に付けるを目指そう。」という言葉だ。
どんな事でもやり続けなければ身に付かない。
そんな事は、子供の頃ソロバンを習ったり遊びの駒回しや竹馬、自転車他を操れるようになるまでには、相当の時間を費やしている。
その事で「やり続ける」は当たり前の事として身に付いている。
だから、その場で「出来る・出来た」と、本当に「身に付いた」は別物でそれには「やり続ける」以外には無いことを知っている。
だからその場で「出来る・出来た」には興味が無いから一喜一憂しない。
ただし、そのその場で「出来る・出来た」が興味深かったり、好奇心溢れるような事であれば、その「出来た」を基本にして「身に付ける」をスタートさせる事にはなる。
もちろん、学生時代に部活等で「身に付ける」を覚える人もいるだろう。
しかし、「武禅」や「ワークショップ」で受講する人を観察していると、この「やり続ける」の痕跡を見つけるのは困難なのだ。
とにかくその場での「出来る・出来た」に価値があるようで、見ず知らずの人同士が組んでやっても「そうそう!」と、まるで熟知しているような口調で励まし合うというよりも、褒め合っているのだ。
もちろん、それには違和感を覚えずにはいられないのだが「ま、いいか」でスルーする。
「身に付けるネタ探し」ではなく、その場が楽しければ良い、という事なのだろうか?
もちろん、全ての人が「身に付ける」必要などない。
必要な人だけがものにすれば良いだけなのだが。