年齢と共に豊かになる感性
ワードプレスをいじくっているが、もちろん、勘で出来る程軟ではない。
しかし、高機能になればなるほどいじくれなくなり、尚且つデリケートになっていくのはどうして?
そして、どれほど高機能になったとしても、電気が切れたら使えなくなる。
それのどこが合理的だというのか、だ。
その世界では合理的、というだけで、トータルで見たら手間なだけだ。
寒の戻りに降る雨は冷たい。公園に咲く桜も寒そうに見える。
「違いを分かる」のは難しい、、、かな?
もちろん、全く興味のない分野の話ではない。
自分が関わる世界、あるいは、自分が興味を持つ世界での話だ。
これは非常に大事な事だと思った。
思ったというのは、年をとってから分かった事だからだ。
当たり前だが、違いを分かるには「違いを知る」という入り口がある。
それは比較する、という感性があるところから始まる。
比較が感性だと書いたのは、本能と直結している能力の変形ではないかと推察するからだ。
どちらが餌か毒か?どちらに敵がいるかいないか?等々が、どうして背が低いのか、どうして足が遅いのか、どうして話がへたなのか、、、、と自分と比較してしまう、背の高い人、足の速い人、話すのが上手な人。
人は人だと親は言った。
人が死ねば、自分も死ぬのか?
人は全部違うのだと。
そうなのだ、人はそれぞれに違う。
しかし、それは比較する事でしか明らかにならない。
この事をどう解決するのか、解決しなければいけない事なのか?
等と、どんどんと問題が現れて来る。
一つ疑問を持つとその連鎖で、どんどん疑問や問題が現れる。
だから、考える。
そうする事で、「考える質」が良くなって行ったのだと思う。
最初の「違いが分かる」と書き出したのは何の話か?だ。
「歌」だ。詩の世界を客観的に表現している歌手と、自身が詩そのものになっている表現と2種類あり、それらが行き来する立体感を聴き分けられた事がある。
それは一つの歌を、2人の歌手が唄っていた時に気付いたものだ。
「違い」は感覚的には分かっていたが、「立体的に」とリアルな言語表現は出来なかった。
それが出来る様になっていたのだ。
表現をもう少し厳密に言えば、ただ声を出しているだけの歌手、自分は詩の世界に生きていると思い込んでいるだけの歌手。
という4種類あり、後者の2種類が一番多い。
もちろん、こころの豊かさを体感していない人には「それがどうした?」だ。
それはそれで自由だから、興味の無い人にとってはどうでもよい事だ。
ただ、これを書いたのは「年齢とは?」を考えた時、「年齢と共に豊かになる感性」を持った私は幸せだと思ったからだ。
そして、その能力が「人との関係」を持てる基本的な能力だからだ。
そこにお金も要らなければ、立派なタワーマンションも要らない。
つまり、年齢と同時に成長するものを持つ事が、幸せの鍵だろうという結論に気付いたのだ。
裸で生きるとはそういう事だ。
そして「裸で」が「武禅一の行」のメインテーマだ。
人の前にいるにも関わらず、人の前にいると「思い込んでいるだけ」「ただそこに立っているだけ」。
人と確かに話している筈なのに「私には話してくれていません」「遠いです」と、自分自身を知るところからしか「裸のわたし」「今、生きているわたし」は始まらない。
110回「武禅一の行」は、5月3.4.5日です。残り5席です。
沖縄ワークショップは5月30.31.6月1日、
夏の大阪ワークショップは8月1.2.3日です。
