よくよく工夫すべし
先日、大阪道場の忘年会だった。
大阪に向かう阪和道は、相当風が強くほんとに制限速度以上は無理だった。
もしかしたら、田辺から関空辺りまでは風でフラフラしていたのではなかったかと思う。
こんな時は、前に乗っていた真っ赤な四角のボルボ940が懐かしくなる。
大きな鹿とかなりのスピードで正面衝突した時も、バンバ―がほんの少し車体の方に近づいただけだった。
それと比べれば、軽の乗用車は一寸した風でも木の葉のように浮き上がったり、お尻を振ったりする。
軽だから仕方がないが。
大阪のワークショップや、道場に来ている一本釣の漁師さん。
忘年会にも来てくれていた。
「先生、一昨年教えて貰った『指での龍法』で、魚のかかりが良く分かるし力が丸っきり力がいらないのが良く分かりました」と嬉しい報告をしてくれた。
これは漁師さんのリクエストで「魚をひっかける為の人差し指の使い方を教えて欲しい」とあったのだ。
その話を聴いた時、直感的に指の龍法でいける、と踏み、それを伝えたのだ。
でも伝えるのは言葉だし、直観はイメージに過ぎないから、実際が分からないし本当に使えるのかも分からない。
そこで飲み屋で紐を探し、指一本でどれだけの力を持たせられるかを実験し、これなら行けるとなったので、そのやり方を教えたのだ。
そして実際に使えるのに「2年かかりました」なのだが、要はその2年の中身だ。
単純に、その指の操作だけで60kgを引き上げる事は出来ない。
その補助としての身体操作は、個人差によるので、自分で探し出すしかないのだ。
その漁師さんは、胸骨操作、肘、膝、全身の連動他、身体操作を全てやり直し動員させたら、その指の龍法が出来たという。
そういう事だ。
何かを出来るようにするとは、そういった発見を伴ったものだ。
だから決して、単純に「指の龍法」だけを稽古して出来た、にはならないのだ。
宮本武蔵が五輪の書で云う「よくよく工夫すべし」なのだ。
そういった「○○を指示された」あるいは「○○をやれるようになる」とした時、「それだけ」で出来るレベルと、それだけでは出来ないレベルがある。
単純に動作や動きだけを覚えたい場合は、「それだけ」で良い。
が、この指の龍法のように、そこに何らかの力を出す事が要求される場合は、それだけでは無理で、自分に見合った何かしらを加味しながら進める必要があるのだ。
その意味で、そうなると指導は厳密には出来ないという事になるし、ここを自分が乗り越えていかなければ、乗り越える力、つまり、諦めない力や、なにくそという負けん気や、根気、工夫、好奇心というような、生きるに必要な能力を培う事が出来なく育つということになるのだ。
2025・1月31日から2月2日は新春大阪ワークショップは阪神野田の近くです。