クリスチャンと
13日神田道場の稽古に行った。
原田先生と喫茶店でお茶をした後だ。
何時もの様にチャリを飛ばし上野から神田へ向った。
道場の前にチャリを止め道場への階段を降りた。
何だか賑やかだ。
外国人が見えた。
しかも椅子に座っている。
「見学に来たのかな」と思って、何事もないように道場に足を踏み入れた。
「あれっ」と思うとなんとクリスチャンがそこにいた。
とにかく驚き、じっくり姿を確認し再会を喜んだ。
よく見ると、奥さんも可愛い子供達も一緒にいた。
それで合点がいった。
「何を稽古したい」
彼はイタリア系フランス人で、英語は苦手だ。
だが、面白い事に武道に関する事は、日本人よりも通じる。
稽古のアドバイスも一言二言ですむ。
日本人には、それこそ何か商品の紹介をするように説明しなければ通じない。
そういった愚痴は、彼らと稽古をしたり古くはフォーサイスカンパニーのダンサー達と稽古をする事で感じた事だ。
「どうして?」だ。
海外の人の方が、武道に詳しいのにも驚く事の一つだ。
「体重移動」は、10年ほど前に1週間程かけて教えたが、その場では出来たがきっと忘れているだろうと思い、復習のつもりでやった。
案の定、忘れていた。
となると連動もだろう。
クリスチャンは腕力が強い。
職業柄もあるのだろう、とにかく強い。
ガッチリ掴まれたら、本当に動かない。
師範代が汗を流し苦労をして倒していた。
こういう稽古相手がいると、自分の身体の緩みを体感出来るので丁度よいのだ。
力は必要ないのに汗を流す?そう、力んでいるのだ。
そういった気付きは、何時もの顔ぶれでの稽古では気付けない。
だから、色々と工夫をしているが、やはりマンネリ化してしまうものだ。
そのマンネリ化現象は、動物の性質の一つなのだろう。
日常生活を単調化(パターン化)させ、労力を省き生きる事だけにエネルギーを使う為だ。
その意味で、稽古だけではなく色々な勉強も難しい。
覚えなければならないものと、覚えてはいけないものとが混在しているのが日常だからだ。
「武禅」のカリキュラムも「明鏡塾」のカリキュラムも常に同じようなものを使う。
しかし、それは深さを追求する為で、それは自分自身が「深さ」を前回よりも求めなければ現れて来ないものだ。
そこが稽古という学びなのだ。