煙草を休憩しているけど
昨年秋、肺気腫が見つかった。
「で、どう?」なのだが、医師が「この機会に煙草を止めたら良いですよ」と言う。
元から止めるつもりはないのだが、途中中止もええかと思い、その日から煙草を吸っていない。
徐々にではなく、また、禁煙外来的なニコチンバッチを用いるでもなく止めている。
別段、それがきつくもない。
それは、自分が「吸おう」と決めて吸い、「一寸止め」と決めたので「止めた」それだけだ。
そんな所から「ニコチン中毒」という中毒は無いのではないかと思う、と医師に言った。
医師は「煙草を吸うとドーパミンが出て気持ち良くなるのですよ、だからドーパミンが吸う原因です」と言っていた。
いずれにしても、私にとってはどうでも良い。
それは、私は吸うのを止めても何も変わらない。
それと、世間一般の何かと一緒にする必要はない。
私は、私だからだ。
つまり、一般化された私ではなく私そのものだということだ。
それは、私が特別なのではなく、全ての人は私と同じ、「その人」の筈だが、どうも世間という風潮や、誰かの言葉に惑わされてしまうクセを植え付けてしまっているだけだ。
肺気腫は煙草を吸わなければ、そのうちなんとかなるものなのか?それは知らない。
慢性気管支炎も煙草を吸わなければ、そのうちなんとかなるものなのか?それも知らない。
知っても仕方がない。
何とかなった時に分かるから、どうだってよい事だ。
大事なのは、まさしく「いま」だからだ。
もちろん、「いま」という考え方ではないいまそのものだ。
「武禅一の行」5月3.4.5日。
そろそろ、申し込みが来ています。