身体操法は40年程前に
クリスマスも終わり、巷はひたすら年の瀬に向かうだけになった。
明日は大阪道場の忘年会だ。
クリスマスで遊んでいたというか、クリスマス的な何かをしていたのは場中学生時代だけだった。
後は、熊野で道場を建てる迄は、仕事をしていた。
その仕事が楽しかったから、クリスマスの思い出は全部その仕事絡みだ。
先日、面白い動画を見つけた。
肘がどうしたこうした、という海外の動画だ。
肘を使えば楽に出来るよ、というような事なのだろう。
私がやっているのと全く同じで、自分の肘を摘まんでから肘?を動かしていた。
もちろん、「そんな風」はいくらでもあるから、それかもしれない。
つまり、筋力に頼っているのだが、それを誤魔化してやっている、というものだ。
その人のサイトへ辿っていくと、中国拳法のようだった。
しかし、そっくりなのは驚いた。
私がこの「肘を使う」に気付いたのは、40年程前になる。
「身体操法」という括りを義弟が考えだしてくれて、そこからこの「身体操法」という言葉を使い始めたものだ。
空手の型を分解し、「腕」を自由に、しかも力を出せるには、を潜在的なテーマとして持ち、「捻じれ」から体感的に考えていった。
空手の三戦の型から捻じれに気付き、その「捻じれ」から全身への繋がりを考えるようにした。
その過程で、常に「肘」が問題になったのだ。
それは、相手の力と衝突するという問題だ。
力が衝突すると、必ず大きな力が勝つ。
偶然、大きな力を逸らす事は出来ても、そこに再現性や普遍性は当てはまらない。
つまり、私の考える「柔よく剛を制す」の体現にはならないからだ。
そういった、私の拘りが「身体操法」を編み出していったのだ。
だから、私のいう「身体操法」は、「力を出す・力の衝突を避ける」という2点がベースにある。
そのベースになってくるのが、「身体は動いてしまった」がある。
それは、身体が動き出す動機の事だ。
意識的無意識的を問わず、「動く」為には動機が必要なのだ。
そして、それをベースにして「全身を使う・繋げる」になり、そこに「感覚」を持ち込んでいる。「体感覚」こそが、実は全身を繋げる接着剤になるし、「関係する」のベースになるものである。
2月6.7.8日大阪ワークショップin上新庄


