武禅・自分を知る

武禅・自分を知る
最後の晩餐へ

1998年7月に始めた「武禅一の行」が、明日で100回目を迎え、一応終了する。世間とは真反対で、上っ面を完全排除していく行だ。上っ面を見破り、「何、いうてんねん」と正面から突っ込むのだ。 「誰に?」「誰が?」ここを徹底的 […]

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本当か?

偏見ということで、興味深い記事があった。https://forbesjapan.com/articles/detail/17905 こういう偏見の根本的な辺りは、殆ど無自覚だ。もちろん、偏見の根本という視点ではなく、別の […]

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挙動不審と思われても関係ないで

成長の自動運動は、日常は何も変わらない。誰かが見ても、ということだ。でも、しまいには何をやっているのかは分からなくなる。 「日野さんは何時稽古をするのですか?」と聞かれると、「何時も」と答える。その何時もになるということ […]

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成長の自動化

「一を聞いて十を知る」という言葉がある。これは想像力の問題と同時に、全体と部分という構造だ。つまり、全体を知っていなければ、部分は分からないという話だ。また、部分を知ることで、全体を想像できるという話でもある。 一つの事 […]

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現場を持っていても、持っていない人もいる

現場を持っており、自分に突き付けられている環境があったとしても、自分に突き付けない人もいる。 もちろん、それも自分では気づいていない人だ。 これは厄介だ。 自分で気付いていないのだから、「あなたはこうですよ」と第三者から […]

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出来ているつもりは

「知っている」のと「出来るようになっている」は、誰が考えても同じではない。 というよりも、全く違う。 しかし、人間というのは厄介な生き物なのだ。 始終言葉にしたり、そんな話をしていると「出来ていると錯覚する人がいる」よう […]

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わたしと私、何時で会うのだ?

わたしの対象者がいなくて、全てがわたしの思いにとって代わる。 これは、一言でいうと自意識が幼稚と片付けられる。 しかし、それは本質だが直接そこには手を出せない。 幼稚ということの症状を一つ一つ改善するしかないのだろう。 […]

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久しぶりの熊野

早朝東京を発ち、熊野の道場に帰った。金木犀の甘い香り、野菜の瑞々しさが、人の住むところだと再確認させてくれた。台風があったにも関わらず、水は嬉しい事にちゃんと出ている。 掃除を終え、一寸一服。ここに来て重たい話を沢山聞く […]

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究極の向かい合いは

あっという間に「武禅」は定員をオーバーしてしまった。 現在、キャンセル待ち。 でも、今回は受講者に余程の事が無いとキャンセルは出ないだろう。 それくらい熱が入っているからだ。 こちらとしても、それをがっぷり四つで受け取る […]

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逃げ道を用意している

「武禅」の真骨頂は、相手と向かい合う事だ。それを「正面向かい合い」という言葉で表している。だから、多くの人は「向かい合いたい」という。 向かい合う、というのは、単なる形だ。そこには「この人と向かい合いたい」という気持ちが […]

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