弱い者いじめ
「弱い者いじめ」という言葉がある。
私が子供の頃は、親から「絶対に弱いものをいじめたらあかん、それは男と違う。弱いものは守るもの」と、さんざん言われて育った。
私は、別段強くは無かった。
喧嘩は沢山していたが、それが強かったのかどうかは分からない。
面白かっただけだからだ。
今の世の中では、そんなことを言っても、誰も理解できないだろうと思う。
喧嘩をするのは、喧嘩をする人とだけだ。
普通のおとなしい生徒と、喧嘩など誰もしない。
悪そうな連中同士が、ぶつかりあうだけだ。
その意味で、何時も喧嘩両成敗なのだ。
この「弱い者いじめ」というのを、よくよく考えると、結局のところ「弱い奴が、自分より弱そうな奴に手を出す」という図式だと理解できる。
弱い奴には攻めるが、強い奴や力のある者には、向かっていかない。
という、まるで現代のパワハラと繋がるのが「弱い者いじめ」なのだ。
と書いていると、まるで現代日本そのものだと思ってしまう。
弱いものが武器を持つとたちが悪くなる。
それが偏向報道と重なる。
その武器は、企業では役職であったり、報道という手段だ。
もちろん、その頂点は権力だ。
だから、役職が悪い、報道が悪い、権力が悪いのではなく、それに相応しい人であれば、絶対に「弱い者いじめ」にはならないのだ。
現代は、弱いものをより弱くしていく風潮がある。
除菌しかり、規則然りだ。
弱い人を法律や、諸々の手段で守るのが悪いのではない。
同時に、「強くする」という手立てがなければ駄目だ。
でなければ、本気でミサイルは飛んでこない、強盗は家には入らない、絶対に暴漢に襲われることはない等々と思い込んでしまうからだ。
そうすると、本当にそんなアクシデントに見舞われた時、パニックになって終わってしまう事になるのだ。
色々な意味での「弱い者いじめ」に対して、毅然と向かえるような自分を作る事が大事なのだ。