人を好きであれば

野次馬ということで昨日は書いてみたが、よく考えると、野次馬の人に「野次馬は駄目」と言っても分からないことだ。
もちろん、野次馬として分かるだけだ。
興味本位だ。
ここでも、こちらが勝手に誤解をする。
「話が通じた」と思ってしまうのだ。
不思議なことに、日本語なのに通じる筈が無いのだ。

しかし、気づく人はいる。
それは、その人が持つ問題の力であり、元々野次馬では無かった人だ。
そうとしか思えないのだ。
ただ、人によって気付くタイミングが異なる。
早く気づく人もおれば、20年経って気づく人もいる。
それは、多分、自分の抱える問題に対しての情熱の差だろうと解釈する。

しかし、何時も書くように、自分に対して野次馬の人が、間違っているのではない。
「私の場に来るのが間違っている」だけだ。
野次馬の人同士で群れている分には、何の支障もないからだ。
ここが現実世界のややこしいところでもある。
こういった人達が混在しているのが社会だからだ。
だから、「顔を見ただけで分かるやろ」とか「声で分かるやろ」という感性が必要なのだ。

老舗旅館の女中さんが、ジャストのタイミングでお客さんの食事を運ぶ。
もちろん、一品ずつだ。
一品を食べ終わった頃に、次の一品を運んで来るのだ。
女将さんの持つ哲学「お客さんを見たら気配で分かるでしょう」と。
その道のプロというのはそういうことであり、そこに誇りがあるのだ。

私は、私の勝手でそちら側の人を目指しているだけだ。
だから、残念ながら野次馬の人とは相容れようが無いのだ。
私は、その女将さんのような哲学から生じたものではなく、人の持つ能力としてある、という立場だ。
ただ、その能力を開発するには、相当の時間と労力が必要なだけだ。
何よりも、そのことに対して情熱を持って取り組めるかどうかだ。
そして、「人」を好きなのかどうかだ。

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