ずっと同じことを書いてるわ、加齢はこうなるわな。
例えば、稽古で「片手両手持ち」という定番の体重移動をする。
そうすると、まずはそれが「出来るか・出来ないか」だ。
で、「出来ない」とすると、「何が?出来ないを実現させているのか?」を探さなければいけない。
ここで、頭が迷子になり始める。
「何が?」は、自分が今行った行為の中での「何が、どう?」だ。
しかし、自分が今行った行為は「自分が『何をどうした』のか?」を自覚的に行っていなければ、自分が何をどう間違ったのかは見つけ出せない。
もちろん、こういった迷子状態を経過し、上達するコツを体感していくのが、誰でも通る過程だ。
ここでの迷子は、その「片手片手持ち」の教えて貰ったやり方を頭に置き、今、自分が行った事との違いを引き出す。
そして、行為そのものを「どう」やろうとしたのかを引き出す。
ここをすっ飛ばして、完全に今やっている行為そのものだけを見て、あるいは、出来ていない現象だけを変えようとする人が多い。
そうすると、それは完全なフィクションなので、全ては机上の空論、幻の中でしか自分を上達させたり成長させたり出来ない。
道場を開き、色々な人が門をくぐり辞めて行った。
その度に、私自身は「習う人」を学習していった。
その習う人を通して、逆に自分自身を合わせ鏡状態で見ている。
結果、ざっくりと言えるのは、技術系というか、何かしらの実技を伴う学びをしている人と、机上だけで学んでいる人とでは、上達曲線がまるで違う事だ。
もちろん、個人差はある。
しかし、具体的に物事を作り出す、という作業が足りていないか、あるいは全くないので、入り口から出口への過程が見えない人が多い。
こればかりは、他人がどうする事も出来ない。
大阪ワークショップは初秋の9月21.22.23日