思い出を作る言葉
言わずと知れた七夕だった。
小学生の頃、どこで竹を買ったのかはしらないけど、お祖母ちゃんが買って来てくれたのだろう。
確かに家で短冊を書いて竹にくっつけた記憶が有るからだ。
大阪の真ん中だから近所には竹はなかったから、きっと近所の市場で買ったのだろう。
母一人子一人ではないが、母子家庭には間違いがない環境で生まれた。
しかし、とは言っても「母」という存在は、お母さんに育てられた人、両親に育てられた中でのお母さんの存在、という存在関係とは少し違う。
もちろん、私以外の家庭の状態や状況は、私が体感していないので何も分からないが、明らかに違うだろうと思う。
以前にも書いたが、小学一年生の入学式に親が付いて来ないのは稀だろう。
担任から親が呼び出されても、担任が嫌いだからと学校に一度も来ない親はいないだろうと思う。
しかし、当時の事だから忙しくて来られなかった親は沢山いただろうと思うが。
その当事者としては「どうして?」だったろうと思う。
もちろん、完全に覚えていないので、それこそ「トラウマ」にはなっていないということだ。
もちろん、「傷ついた」という言葉も持っていないし、母を恨んだことも無い。
それらは、それらの言葉を持っていなかったから体験していないのだ。
もし、その後それらの言葉を持ったとしたら、きっと体験も体感も出来ただろう。
戦争や事故等という、突発的で大変な事を除いて、全て、自分の思いが作り出している事だからだ。