真っ直ぐ飛んでくる視線、それが関係の基本だ
春になった。
暦が3月を告げると急に春を感じる。
人間はそういうものだ、と思う。
先日、熊野の梅林を通ると微かだが梅の香りがあった。
旬を過ぎているから仕方が無い。
4月28,29,30日は、春の「武禅一の行」だ。
気分的には良い時期なのだが、山の中だし不順な天候だから、思い切り寒さがぶり返すかもしれない。
が、一応春すぎの熊野は梅雨前の良い季節だ。
「武禅一の行」は「関係の中で生きている」という事の確認であり、その検証でもある。
人は先の事に思いを巡らせる傾向があり、特に日本人は先の不安を持つらしい。
「らしい」というのは、色々な情報の中に書かれているものだ。
当然、個人差がありそうでない人もいる。
「関係」は赤ちゃんから幼児辺りまでは、間違いなく「好奇心溢れる眼」をしている。
それは犬や猫他の動物達も同じだ。
真正面からその意識は飛んでくる。
しかし、小学生になり中学生になると、その真っ直ぐな視線は消えていく。
その真っ直ぐな視線が「関係」という状態の基本だ。
そして「眼」がその中心になる。
相手からの情報を「眼」で受け取り、それを補足するのが耳だ。
そういった生物としての原初的な体感、原初的な能力が退化しているのが、我々現代人だ。
そこを補強し、自分自身の人生を自分自身として「生き切る」を目的としている。
今、目の前にいる人。
その人に私(意志や気持ち)を届ける、相手(意志や気持ち)を聴き取る。
その「関係状態」こそが「生きている」である。
「東京・明鏡塾」を7年間受講している男性は
『「なぜ聞くが出来ない?」「なぜ話すが出来ない?」「普段からやっているはずなのに?」「先生との違いは何?」「動物はどうやってコミュニケーションとってるの?」多くのテクニックはそもそも「聞ける」・「話せる」・「触れられる」ということを前提にしてますが、そもそも聞けていない、聞いているつもり、聞こうとしているといった状態の時に、何を添付しようが、付け焼き刃。となると、自分自身の「意識」たるものを相手に注ぐ。まずはそこから。』
というような問題意識を持ち、「関係」に挑戦して来ました。