グループで歌を唄う・届いているかいないか?分からないまま、反応を観察し判断する(正誤を決めるのではなく、意見を出す訓練)

今回参加者のレポートから抜粋して掲載します。

セクションは、ここに入っていない自主練も含めて9セクションあります。
全員同じ事をしているのですが、人それぞれの目的があり、そこから導かれる解釈や理解度、そして、何よりも自分が抱える問題と置き換えて臨むので、同じ体験を誰もしていないのです。
つまり、人はそれぞれに同じものを見ていないし感じていないのです。
そんな事も頭に置きながら感想を読めば、「本当に人はそれぞれに違う」が明確になるとおもいます。

●「意識のレール」届けたい気持ちをレールに乗せて強く届ける。そのレール自体が、とてもおぼろげで無いもののように生きてきた。自分が周囲からどのように見られるのかの方に、意識の大部分をむけていて、自分が本当にどうしたいのかが抜け落ちていた。

「セクション6 ピラミッド」

●前進して来る相手に本気で「止まれ!」と強い気持ちで言った時は、相手も止まる感じを受けたと言ってくれたので、余計な事は何も思わず、ただその気持ちを伝える事に専念する事を、日頃からやっていかなければ、周りには何も自分の気持ちが伝わらない事になってしまう。


106回武禅一の行感想文2023-4

今年も春のゴールデンウイークの前半に「武禅一の行・春」を行った。※4月28,29,30日

前回も参加していた中国人の女性が、感想文の中に「今回、参加者全体のレベルは、去年の秋より高いと感じました」と書いていました。
確かにそうだったかもしれません。
中身が相当濃い感じがしたからです。
それは、目的が明確な人が多数いたから、そして、その人達に引っ張られて良くなったのです。
良くなっていくと「良い場」が発生し、それに連られて皆も熱く濃くなっていきます。
その意味で、「場」とは不思議なもので、生モノだと何時も思います。
参加者が半分以上同じ時があるのですが、だからといって同じような濃厚な場になるとは限らないからです。

昨今、言える事は「独りぼっち」の人が間違いなく増えています。
しかし、その事を自覚していないのが問題なのです。
私達は、人間社会でしか生きる事が出来ないのです。
にも拘らず、それは一体何を意味するのかを考えない人が大多数になっているのが、現在の日本です。

そんな中で、自分の人生を深く見つめ貴重な気付きをした人がいたので、その一部を紹介します。

47歳の誕生日は、日野先生の山籠り合宿「武禅」の最終日でした。
父が亡くなり、ここ数年の自分をぶつけるつもりで、5年ぶりに参加して参りました。
1人になったとき、ふとこれだけ真剣に考えて向き合ってくれる人の有り難さが胸に溢れました。
同時に、父がどれだけの気持ちで私に向き合ってくれていたのか、どれだけの人が私を支えてくれてきたのか、自分しか見えなかった自分が浮かんきて、悔しくて涙が溢れました。
死んだら、もうケンカすることも、謝ることも、笑い合うこともできないのだから。。
ずっと外側に答えがあると思い込んでおりました。その答えが「自分」だと勘違いしておりました。
違う!自らの内側にこそ、本当の力がある。
その「自分」とは目の前にいる人の(命)が教えてくれている、と思うようになりました。
「人は、人によりて、人になる」最後に先生がお話してくれた言葉です。
ここだけ切り取ると意味だけになってしまいますが、今の自分にとって、とても突き刺さった言葉でした。「人」なんです、、。
これからも、人に揉まれて、悩んで、笑って泣いて、生きていきます。どうしようもない自分なんですが、本当に導いていただいている師匠との出会いは、恵まれています。

「武禅」では、2泊3日、深夜の懇親会まで、人と真剣に向かい合い、声を届け聴きます。
その事が、それぞれの人の持つ課題、あるいは問題に対して化学変化を起こさせるのです。
決して「習う」のではなく、「教わる」のでもなく、もちろん「理解」するのではなく、自分の感性のまま獲得、体感、そして、その場で実践できなければ価値も意味も無い、本当に人生そのものが「武禅一の行」です。

最年長は80歳の女性です。
その女性をして「先生に指摘して頂いた事が、とてもとても大きかった。80年間引きずって来た生き方を、大きく修正するキッカケを頂きました。」と死ぬまで成長していく気構えを持っているのです。
それこそが「生きているから」です。

106回「武禅」を終え、一呼吸してから感想をくれました。

日野先生、和子先生、先日は武禅で大変お世話になりました。
ありがとうございました。
真剣に向き合っていただいた皆様に感謝です。声を届ける、夜の自主練の時、長い時間なかなか上手くいかないので、休憩しようとした、私に対してTさんが「もうええの?」と言われたので、「ええわけないがな、Tさん」と届けても届けても「全然反応せーへんやないか、くそ~」「人に鈍いとかゆうてきて、おっさんもにぶいがな、なめてんのか、くそったれ」と「反応せ~や、おっさん、こら~」心の中で叫びながら、届けました。
「反応せーや、おっさん、おら~」で届けた時、頷いてもらいました。

とれるまで終わらない、野球のノックのようで、昔を思い出しました。
Tさんや真剣に向き合ってくださった方々がいたから、どんどん突っ込んでいけました。
「くっそ~おら~」の気持ちでずっといったります。

【今しかないその瞬間にやる】

私につき合っていただいた、皆様に感謝します。
三日間を通して、和子先生の料理が非常に美味しくて、楽しみで、早く飯こいと思っておりました。
最高に美味しい料理、ものすごい量の仕込み、準備・後片付けなど、ありがとうございました。

武禅を通して、血のつながりを超えた兄弟みたいになってくれる方が沢山いて心が躍りました。
遠い昔を思い出します。
忘れていたものが蘇り、やっぱりこの感じが良いな。
そんなふうに関わってくれる方々が沢山いて、めちゃくちゃありがたかったです。
夜中の稽古の時の先生のマイウエイ 最高でした。
涙があふれでて、心が震えました。痺れました。
自分も60歳すぎたときに、カッコよくマイウエイ歌えるように生きたいと思いました。

武禅後、患者さんが、頻繁に悩みを相談しに来るようになるといった変化もあります。
治療所の玄関で一生懸命聴いていたら、話始める前に、涙を流して話をしてくださり、「聴いてもらったら身体も楽になりました。ありがとうございました。」と言って、施術は受けずに、話だけして帰って行かれることもあります。
完全無料の目で聴くカウンセリング状態です。
武禅での経験を元に、自分の周りの方々に良い影響を与える存在となり、人々に還元していこうと思います。

今日、先生がブログでおっしゃっていたように、よくよく考えていたら野球をしていた時、私もリミッターなんて言葉は持っていなかったですし、知らなかったです。
リミッターがかかっているから、燃え上がれないのではなくて、情熱を向ける対象があるかないか、ただそれだけの事でした。
自分にはリミッターがかかっている。だから燃え上がれない自分自身がいる、というような思考をしてかってに頭で自分を作っていました。とてもややこしいことをしていた事に気づけました。

今回参加者のレポートから抜粋して掲載します。

セクションは、ここに入っていない自主練も含めて9セクションあります。
同じ事をしているのですが、人それぞれ解釈や理解度、何よりも自分が抱える問題と置き換えて臨むので、同じ体験を誰もしていないのです。
つまり、人はそれぞれに同じものを見ていないし感じていないのです。
そんな事も頭に置きながら感想を読めば、「本当に人はそれぞれに違う」が明確になるとおもいます。


「セクション1 真剣向かい合い」

●本気で向き合うのが怖い。
それは自分を見透かされるのが嫌だから、省エネで何時も人に接したり、普段生活して生きている。
テクニックややり方を身に付けて何となく表面的にやり過ごしている。
まずは、自分が人と向き合えていない、人をしっかりと見ていない、その事をしっかりと受け止めます。

●約5年ぶりの「真剣向かい合い」日野先生の顔が迫って来る様に感じた。
以前は「自分がどうするか」ばかり考えていて、相手の事など何も見ていなかったです。

●「いない」「遠い」「近づくのを恐れている」と、ほぼ言われ続けておりました。
また「関わろうとしていない」とも、何度も言われたのですが、日々の仕事や出来事の中で、最近特に感じている不毛感や疲れは、この自分の遠くから見物しているような、いつもお客のようにその場限りで通り過ぎていた事から来るのではないかと思いました。
特に「遠い」は、今に始まった事ではないので、直ぐに見破られるものなんだなと驚きでした。
他人どころか自分とも繋がっていないのかと、向き合いをしながら納得していました。
自分とも繋がっていない、カラをかぶっていたらそこにいないのも当然ですし、内から出て来るものが無いのにも納得していた、そんな時間でした。まだ始まったばかりなのですが、「これは、来なきゃ」と思ったはずだと思いました。

●「4人の方の前に立つ」では、Sさんに言われた事がズバリそのものでした。
「上手くやろうとしている」その時点で頭で何とかしようとしていると分かりました。
しかし、次は止めようとしようと、頭が働いていて、やはり、頭が動いていました。
ただ、前に立って向かい合うだけなのに、そこも動かされる自分がいる。
影響を受けている事は認識できるので、この3日間でどこまで、結果、頭がやらないところへどれだけアプローチできるのか、やってみようと思います。

●「正面向い合い」で、「目の前にあなたはいないです」「ただ眺めているだけ」「遠い」「私の事を見ていない」等々の言葉を皆様に言われました。何も考えずに向かい合ってみた時、数名の方に「前にいるけど遠い」「もっとこれます」等の言葉に変化していったが、まだまだ駄目だ。
写真を撮って見た。自分の無様な恰好に驚きました。
これではいかん。なんとかせなあかん。

●最初は、相手の事を観察する、感じる、ありのまま受け入れる、意識を同調させる事が必要と思った。
しかし、それは受け身でありどこか他人事になってしまっている状態ではなかったか。
相互の関係性が重要という事ではないか。
そこで、戦っている、相手が攻撃してくると想定して、こちらも向かって行く気になってやってみたが、そうすると、相手はそれを受け取ってくれない。空回りをしている。
自分の一人よがりになっていたような気もした。
これは練習すれば、だんだんコツが掴めてくるような経験や技術の側面も少なくない。
それはつまり、相手と真剣に向かい合う闘争の場面に身を置くという経験が、自分は少ないという事ではないかと思う。

●相手への興味=感情?、相手に興味を持てない、感情が発動しない自分にもっと危機感を持たなければいけないと感じた。
写真に映っている自分は「ただの呑気な何もしていない自分」で愕然とした。

●「正面向い合い」で、どん底に落ちる自分がいて良かった。
この気持ち悪い幻想が出てきた。
素直、今、今だけなのに。気持ちが動くと(向かい合いで)見ていて遠くなるのに気が付いた。

●人と向き合う前提が必要なのに、相手に与えている印象は「薄い」「無い」結果が返って来た。
有ると無いのちがいは言語化出来ないけれど、確かにそう感じた。
実際に写真を撮る事で、自分の印象と相手・他者が教えて下さった結果が一致していて、自分自身は「やっているつもりになっている」だけだという事に改めて認識出来ました。

●感想で言われたのは「方法でやろうとしている」「上手くやろうとしている」「弱い感じ」何度やっても大人しい自分、おさまっている自分になってしまう。
強く向かい会おうとしても、顔や上半身にきんちょうが走り、強張ってしまい相手と関係する入り口にさえ立っていないと感じた。

●「真剣向かい合い」で、先生と向かい合った時、先生は全くブレずに真っ直ぐに、私に向かい続けている。
その感じにたじろいで、頭の中がざわつき身体がゆらゆら定まらない。
集中力の弱さも感じました。自分が木刀を持つ側になると、目の前の人が私を見ずに、ただ立っているだけなのが分かりました。
その逆の時は、「腰が引けている」「弱い」「もっと来て欲しい」等のコメントを貰いました。
Tさんには「何か護っている感じ」とコメントを貰った時に、またカッコを付けている部分があると思った。

●初めて「武禅」に参加して、何をやればいいかと迷いました。
相手と向き合い、何を感じたか、相手にどう感じたかの実習で、「あなたはここにいない」と言われ、理解できませんでした。
「何故、何故、何故」と考えても分からない。
普通なら分かったフリをしてしまうのですが、この機会にフリをしない自分になりたいとおもいました。
今は、やるだけと思い、一生懸命やります。私自身、他の人に関心があまりないので、きちんと対峙して良い関係を作れるようにしたいと思います。

●気持ちだけが先走りすぎ、やるべきことを見失っている。現在の私の形に似ていると感じた。
自分一人がやっている事に酔いしれて周りが見えていない。
全てにおいて、今の私は表面上だけのものであると、今のセッションで感じた。
ここを何とかしないと、このままスキーの様に滑り降りる人生になってしまうと感じた。何をどうしたら良いのか?何とかしなきゃ‼

「セクション2 相手に届ける」

●脳内でイメージしている自分と、写真や動画に映った自分のギャップに驚いた。
自分自身の為に聴くが出来ていないと感じた。
自分の身体を観る事、聴く事、気づく事の至らなさに気がついた。
脳内のイメージと実際の自分が一致すると、すんなり行く事が鏡を使ったワーク(ヒント)で感じた。

●ちゃんと聞くとは、相手の言葉を正確に理解する事だけではないらしい。
筒の様にトンネルの様に通す透すだけらしい。分からない自分がいる。
口から入った食べ物のように、ただ排泄作用に任せれば良いのだろうか?消化吸収は考えて出来るものでは無いのだから。

●Sさんと組んで「背中側からオイ、こんにちはと呼びかける」Sさんは、少しの違和感もフィードバックを直ぐにしてくれるから稽古になる。
自分が意識できていない力みや、わざとらしさをその場で指摘してくれる。
言われてみると、何か変わった感じがある。
そこで考え込むよりもどんどんやった方が良いと言ってくれたのも良かった。
まだ曖昧な体感を頼りに頭で考えるよりも、ジャッジを繰り返して、とにかく体感の数を熟して少しでも曖昧さを無くしていく方が先だ。
その片の感覚も無いのに、考え過ぎだ。
写真に写った自分の無表情な顔、あんな顔を家や職場で何時も晒していると思うと嫌気がさす、情けなくなる。

●今のセクションで、しっかりと声を前に出し思いを届ける事は重要だと感じた。写真を見てビックリした。
顔が恐ろしすぎる‼真面目過ぎる‼鏡を見た後は、少し肩の力が抜けてマシになった。
自分の姿がいかに自分の感じ入るものと違っているのが分かった。

●聞いている風なおっさん、分かってる風なおっさん、自分が気持ち良くなる為に歌うおっさん。
全てが自分だけの世界でやっている。
声が伝わらないと感じたら、直ぐ諦めてしまって。
そうすると、どんどん自分一人だけで声を出しているのが強くなり、相手がいなくなった。普段から出来なかったら直ぐに諦めてしまって、出来る風でごまかしている自分に、改めて気付いた。

●「こんにちは」ではアナウンサーのような話し方になりやすく、言うにも聞くにも自分の硬さに驚きました。

●「こんにちは」を伝えるでは、やろうと準備してやると不自然そのものになるのが、自分でも良く分かった。
自然にやろうとすると、余計に不自然になる。
またなんとか自然に出たものだと、弱くて届かない。
この繰り返しの中で何か気付けるものが出てくるといいのですが。

●相手に届けようとすると、わざとらしくなってしまう。
自分としてはちゃんとやっているつもりが、相手にとっては違和感になっていた。
「一生懸命」と思うと、目が力む。
私がやっている「ちゃんとやる」や「一生懸命」は、私が思っているだけ。それではない事が分かりました。
鏡に映っている自分にコンニチワは、良かった。
自分に向かってだと脳内は静か。
他人に向かってやると、無意識的に壁を作っている。
何故か?相手に対して持つ、自分勝手な固定観念が壁となっているのか?

●「こんにちは」の顔を動画で見て、これじゃダメだと思う。
気持ち悪いし、「こんにちは」も言えていない。
その後、鏡に向かって「こんにちは」を練習した。これなら毎日練習できる。

●相手に届けるという行為をしている風になっている事が、動画を通して見えました。
何故できないのか?自分では気づけなかったのですが、鏡を通して行った時、自分の姿に違和感と距離を感じました。

●今まで、お相手に届けると思っても、その相手は単なる対象でしかなくて、その個人、唯一の人ではなかったと思い当たる。
何と失礼だったのだろう。顔無しを相手にしていたみたいで。
そして、それは自分自身ものっぺらぼうなのだと思った。

●鏡を見て挨拶を練習した時に、こんな自分から挨拶されたくないと思った。
相手に媚びる感じで、気に入られようとしている自分が映ったから。

●とにかく自分から何かを出すのも、相手を聞くのももの凄く恐怖がある。
その恐怖よりも大きな欲求や相手への関心を持つ事が、恐怖を乗り越える第一歩だと思った。
あと、「出来ないという前提でやっている」とも言われた。
多分、「出来ない自分」でいる事の方が楽だから、努力や工夫をしないですむから。
そういう思考になってしまっているのだと思う。
怠け者の自分が自分を弱くしているとも思った。
写真の自分は、相変わらず訳の分からない顔をしていて、そんな顔で生きている事が、とても恥ずかしいし残念に思った。

●「声を届けるワーク」後ろ向きの人に「オイ」と届ける。
的を絞って叫んだ時と、そうでない時との違いに気付いた。

●的を絞っていない時は、声が大きく広がって、相手に向かっていかないが。的を絞ると、ポンと届いたような時もあったが、毎回はそうはならない。やはり気持ちが足りていないと届かない事を改めて実感しました。

「セクション4 相手に届ける・聴く」

●人にアドバイスをして、少しでも変わってくれるのが嬉しい。
そうやって人の表情が変わったら、「ああ良かったなぁ」と思う。
人の事を気にしている場合か、と突っ込まれそうだが、全ては相互関係だ、という事を思って何でも全力でやろう。

●「委ねることと、流れに乗るのは全く違う」というお話を頂き、自分軸のブレに気付いた。
自分の人生も同様で、自分軸と流れに乗る事が掛け算された時は、物事が進みやすい。
単に相手に委ねてしまうと、結果が出せなくなる。「武禅」の「禅」に触れた気がした。

●天神様の細道じゃにて、又も迷子になってしまった。迷えば迷う程に、けど底なし沼ではなさそうだ。
今回も疲れるまで、とことん疲れてみよう。脳も体も神経も、普段意識しないところも。

●先生に指摘して頂いた事が、とてもとても大きかった。
80年間引きずって来た生き方を、大きく修正するキッカケを頂きました。
毎回ゼロに戻る。毎回過去は消去して新たに出発、ということを意識して「聴く・届ける」をTさんとさせて頂きました。
Tさんにしっかり受け取って頂いたり、届けて貰ったり余韻が残る程、身体が微妙に振動していました。

●最後に鏡の前で練習をしてから歌を聞いた時、今までで一番聞けている感じがした。
その時は、自分も相手も気持ちいい感じがした。やっぱり人の話を聴きたい‼人にしっかりと伝えたい‼

●前日の自主稽古で、自分は相手によってまるで態度が変わると指摘を受けた。
先生のお話で、「自分のバイアスに気付くこと、人を見るフィルターに気付くこと、最初はオープンマインドでなければいけない」というお話があって、正にそこに気付くことが出来た。
ずっと前から「何となく」気付いていて、放置していた問題だとも気付いた。
その相手が気に入らない訳ではない。何かくだらない小さな事が気になって、それが態度に現われてしまっているという事だ。
職場でそういう態度をとってしまっているのだと思う。恥ずかしくてならない。

●一つ一つの稽古をリセットして0から行う。
過去は引き摺らない事。声が相手に吸収されてゆくのと、跳ね返さているのを明確に感じた。
関係性が大切。相手に届けようという、強い気持ちを忘れがちになっている日常。
何を伝えたいのか、ハッキリと思いを込めて。

●自分を録られた動画を見て、客観的に見ると全くできていない、一人でやっている自分がもろに見えて、こんなにも出来ていないのかという事を本当に思った。
小手先でやり方を少し変えて、本当に思い切りやるのをビビッている。
何時も人の顔色を見て、無理くり嫌われないように人に接している。

●相手と関係するのに、自分がやることばかり。
相手にとってどうなのか、よくよく注意しなければ独りよがりに、やり続けるだけだ。
相手に届けるでは、動画をみて、「もっとこうしてみよう」と形に注意がいくと、途端に相手から離れてしまうのが動画でも分かった。

●相手に届ける際、入り口がとても大切で、入り口を失敗すると流れて行かない。
自分がやっている事に気付かない自分がいて、本当に鈍いなと感じています。

●「腕ふり」で組んだ相手の人が上手くなっていくのが嬉しかった。

●朝の「相手の流れに乗る」も「とおりゃんせ」も、今まで「相手に委ねる」いう方向でやっていたが、先生からコメントを頂いて、相手の流れに乗るけど、主体はあくまでも自分と思ってやってみたら、お互いに少し影響を与えられるようになった。
今まで、どこか相手任せでやってしまっていたと気付いた。
それが普段から色んな場面で出てしまって、雑な行動を取ってしまっていたように思う。

●スワイショウの動きに合わせて入る。リズムの流れが途切れる時に、人は動かない事を改めて感じた。相手との関係があって動かされた身体は、相手も動かされる身体の状態になっている事を実感できました。

●流れに乗る、真っ直ぐ届けるがキーワード。自分がやってみた事と、動画でのズレを確認できました。
届ける前提でも、相手への配慮と準備が必要で、それがないと声が衝突し流れに滞りが生じてしまう。
出す前に相手を感じ、それからがスタートである事。
身を持って「今、出来ていない」を実感する事が、自分をクリアにする唯一の手掛かりなのではないか?という事を実感しました。

「セクション5 相手に届けるⅢ」

●円になっての早口言葉は強烈だった。
自分の全てのエネルギーが外に飛び出した感じがあり、凄く気持ちが良かった。
普段の生活の中では、感情を内に向け、他人に対して表す事が少ない。今日からはこれを改めようと思う。
まずは、子供達には全力で伝えよう。

●ずっと先生が言ってくれていた「届いたか、届いてないか」それを自分でややこしくしている。
ややこしく色々と考えて、相手に届けるというシンプルな事をやろうとしていない。

●早口言葉で、相手に根負けする時があった。
自分は逃げてるのか、もうええわと諦めているのか、何かわからないけど、パワーを感じる人は年齢に関係なく、凄いと思う。

●早口言葉では、本気で相手と対峙する事が出来た。空手の練習でもここまで本気でぶつかる事はない。
「歌を届ける・聴く」理屈で考えると、声の出し方や表情、ボディランゲージを手段として用いてミラーニューロンを持続することを技術として身に付けるプロセスかと思うが、ではどうすべきなのか、何が良くて何が駄目なのか言語化が難しい。
出来なくて当然であると同時に「ただ本気になってやればいい」ということではないかと感じた。
また、それは自分がいかに日々あらゆる物事に注意を向けず、関係性を結ばずに生きているか、ということに繋がる。
というか、そこが人間と動物の違いであるように思う。

●目線は舐めるように動かす。目だけを動かさない。
一人ずつ指を指して確認すると意識しやすかった。
色々と試していく事は出来たが、そこに私の気持ちがまだまだ弱く感じる。
「日常でも武禅でやった事を活かします」と言ってきたが、そこが全然弱い。量が少ない。練ってもいないから、それがそのまま気持ちの弱さになっている。全く足りていない自分を感じます。

●「2人の歌を聴く」をやってみて、2人に集中して意識を向けると、少し聴けるようになったが、多人数になると意識を広げられず届けられない。
端っこの人には届きにくくなり、次にそこを意識すると逆が無くなったりしました。

●今回のセクションはTさんと同じグループになった。
的確なアドバイスは、気付きに繋がる。
「目に力が入っている」そのアドバイスと、Tさんの目の表情を見て、自分の過ちに気が付いた。「目で聴く」その事を失念していた。
目で聴くに変えた途端OKを貰える事が多くなった。大事な事、忘れてはならない。

●自分自身に疑問が持てた事が今回の気付きだった。

●9人から19人になった時は、皆の圧が強くて一気に緊張が走った。
2回目やる前に19人と対峙するつもりで、気持ちを切り替えたけど、直ぐに☓を出されてしまった。
自分に足りないのは、相手を聞く周り(全体を捉える)、多人数になってもそこに立ち向かって直面する事。
その為に必要なのは、成功体験ではなく失敗を沢山する事。
いちいちへこたれずに、直ぐに切り替えて挑戦し続ける事。

●私の「一生懸命」は「独りよがり」、「思い切りよく」は「カッコ付け」、「真剣」は「構えてしまう」だ。言葉と私のやっている事の実際が全く違う事を感じました。

●対10人の歌では、全身に力が入り過ぎていたけれど、思いを前面に出せて気持ち良かった。
只、20人と倍になった時に、全体を掴む感覚が取れず、少し気持ちが引いてしまった。かなり残念!次回こそ‼悔しい‼
他のメンバーが前に立った段階で、なんとなく違うだろうというのを感じるようになった。

「セクション6 身体で聴く」

●手の平と手の平の接触、支配と被支配。絶妙な駆け引き、スリリングでもあり、悔しくもなり、優雅なダンスに見えて、内情は大変な心も体も。
セクション6までくると、整理したいが、脳はオーバーヒート状態になった。私的には正常で良好だと判断しています。

●「体験できない」という日野先生の言葉が脳内で繰り返された。繰り返し繰り返し「何でだろう?」と、取り組むことでしかないと思った。
自分の意識を持つ事と、自分が動かそうとする事はまるで違う。
何か相手をコントロールしようとするのではない、「そうなってしまう」という事は一体何なのか?問い続けたいと思った。

●今までのセクションより、「出来ない」という事を受け入れる事が出来た。
今までは出来なかった後、ごちゃごちゃ聞いていったが、今回は「事実出来なかった」という事だけを受け止める事が出来た。
色々な自分に気付けるのは、やっぱり良い‼普段同じ事ばかりしているので、自分の見たくない部分は見なくていい。
やっぱり、トライアンドエラーで、やったことなことをどんどんしていく。

●身体のみになる。身体のみの感覚を掴みに向かっている時は、身体の自由さは非常に面白いというか、頭は必要以外はいらない。
瞬間に切り替わらないと、両党使いは不可能だと思う。
とにかく感覚を指針に、身体が一体になるような感覚は、体感すると気持ちが良い。
つまり、結果的には身体に良い事になる。つくづくこの世は身体に害になる事ばかりである。さあ、動物にもどろう‼

●手を合わせた時、全然距離が遠いと言われて、全く訳が分からなかった。
力の強弱ではなく、気持ちの問題という事なのだろうが、そういったセンサー全く開発されていない人と、開発されている人がいる、ということなのか、それとも自分のこころが開いていないだけで、一瞬で開くこともあるものなのか。
とても奥が深いということは分かった。

●「肩動かし」で、動かされる方をやっている時、感じて動かされるをやっていたつもりだったが、組んだ人から操られるのではなく、体で聴いて下さいと言われ、間違った事をやっていたのが明確になった。
また、同じ方に自分では気づかなかった微妙な上下の動きについて来れてない事を指摘されて、それが分かった事も良かったです。

●「手のひら合わせ」リーダーを乗っ取るをやっていると、どんどん相手との密着が良くなって行きました。
先生から「どうぞの感じで」とアドバイスがあってから、組んでいたCさんの雰囲気や動きが変わり、リーダーの乗っ取りが出来るようになってきました。
思い返すと、出来なかった時の動きは直線的で、出来るようになって来た時は、曲線の動きになっていた。

●「手の平合わせ」で、取り合うをやってみて、手の平に意識を集中する事で、流れが変化するタイミングがあり、その時に取りに行くと取りやすくなりました。手と身体が繋がっているのを感じられるワークでした。

●2人組のセッションは、自分では良い感じだと思ったが、人数が多くなるにつれて諦め、何時もの妥協。応用しろや‼
「肩動かし」では皆さんと交代でやったが、人それぞれに違い過ぎる。
当たり前だ。違いに対応するには感じるだけ。

●手の平重ねで主導権を取り合うゲームは、自分が取る側になる時、直ぐにバレてしまったり、直ぐに取り返されてしまって、自分のしようとしている事が、相手にははっきり見えてしまうものなんだなと思った。
自分の存在が薄っぺらい感じがした。

「セクション8 ピラミッド」

●前回の「武禅」の終わりに戦線が「余裕がある、ふんどしを締めていない」と言われたことを思い出す。
これまでのピラミッドは、何か方法ばかりをやっていたと思う。
今回は悔しかった。
自分一人でやっていたり、拡散したりがハッキリ分かった。
悔しくなって余裕が無くなり思い切りやって、手を上げてくれた時に、嬉しさとか色々な感情が出て来た。
これまでは、そういう事は今回ほどなかった。
ほんまにギリギリまでやって、余裕がなくなって無我夢中になって、やっと方向性が定まったという、入り口のところなのだ。

●自分がやっていること、やろうとしていることは、実際に自分が思っているよりもずっとズレがある事、タイミングもズレがある事が分かった。頭であれこれ考えず、気持ちと行動が一緒になった時は、声が出しやすかったり、シュッと一本に絞れていたように思う。

●「オイと呼び止める」では、比較的至近距離では、相手がビクッと反応して立ち止まらせられるが、距離が離れると声が散って、その人に行っていないようになる。
そもそも至近距離でも声が散っているのではないか。
至近距離では指向性で反応しているのではなく、近くで散っていることで影響を受けやすいだけではないか。
今回の「武禅」でも、声をぶつけられているように感じるとの感想も頂いているので、同じことのように思います。

●相手から「そうです」と言われた時には、声だけでなく頭部全体にビンと矢が当たった感覚がありました。
自分の番の時は、正直なところ夢中で余り覚えていないのですが、「そうです」と言う言葉が出るまで、狙った人の斜め前や後ろの人が手を上げられることが続きました。
自分が気持ちを向けるところと、相手が受け取るだけの届け方に、開きがある事に気付けました。
声も拡散しやすく、パンとその人に向かって発するのは、積み重ねて行くしかないと思いました。

●人を呼び止める実習では、相手が感じ止まってくれる時があるが、なぜ、何をした時に伝わったのか、自分の気持ちがどのような状態の時になるのか、ほんの少し感じられたと思います。
「待て!コラ!お前じゃ!」と本気で思った時、感じて貰えたようです。
ピラミッドでは、自分は受ける力が弱いと思いました。
相手の発信するものを受け取れるように、今回の実習で気付いた事、感じた事を忘れないようにしたいと思います。

●的を絞る、対象をハッキリさせる。声の出し方を気にしだすと、途端に声が上ずっていく。
独りでやっている感じ。相手を無視している。
これまで、その事に気付かなかった。
何というかどういうか、自分の言いたいことだけぶつけているだけ、もっと言えば、憂さ晴らしをしていたのかも知れない。

●昨日の続きですが「現象を見る→それを見たまま行う」の間に、ポイントを聞いた段階で、その単語が頭に残り、それはそうなのだがその単語を完全に忘れる事が「それを見たまま行う」事にフィルターがかかっているのだと思う。

●人に作られた世界で生きて、自分が無い。誰かに依存して誰かに何時もやって貰えると思っている。
だから、隣に誰かがいても違和感も感じない。
誰かがやってくれると思っているから、何時も待っていて自分からいかない。
先生をみて、自分からやって自分でやって、自分を高めていく事が本当に大切なんだと思った。

●前を歩く人に向かって「オイ」と呼ぶ。
相手も自分も動いているから、目標が定まり難い上に、気迫に欠け自分の声を前を歩く人を突き抜ける事が出来ない。
今まで生きて来た自分が、いかに適当にその場をやり過ごして来たか。
苦しい思いから逃げて来たかを感じている。
真剣に向き合い自分を変えていこう。

●ピラミッドで座っている時、声が届いていないけれど、自分のほうに来ているかな?と思う事があったけれど、邪魔をしたらいけないと思い、手を挙げなかった事が度々あった。
届ける側になった時、拡散するのは減ったと思うが、指差しの方向がずれてばかり、指した隣の人が手を挙げるという事が、度々あった。体の向きが影響しているのでは?と、届ける相手の人の体の向きに合わせ、指差しの方向を定める事によって、今回はその人に届いた。

●「オイ」と声を届ける時に、既に相手と繋がっていると感じた。狙いを定める=相手に入る事だと思った。
「感性が衰えている」という休憩の時の日野先生の言葉が、ピラミッドを終えてから思い起こされた。
感性の衰えで人を聴きにいくから、届ける事が的を絞り切れず漠然としている。
身体はもっと広く深く何かを感じいる事が出来るのに、それを閉じて来ている自分がいた。

「セクション9 歌を届ける」

●現場を味わう事を知った。
歌が重なり合い、その言葉が意味を脱ぎ捨て、音の響き合い、共振へと昇っていく事は、決して言葉化できないし、してはならない事だと感じた。
この時空間に、自分が在るということに、すくっと立てた。
日野先生の総括にあったが「人は人の関りの中で、人となって行く」事が、道場という場に縁あった仲間のお陰で経験できた。
この事は新しい自分の発見でもあった。それは何時もそこにあった自分でもあった。

●20人が10曲、2人1組で同時歌い合い。
混線するもお互いが邪魔になったりしつつも、何時も調和しあう不思議な空間・時間・みんなでした。
将来同じメンバーが集まっても、2度と味わえない尊いなぁと。
明日になったら忘れるかもしれないけど。それも良いかも。

●「武禅」に参加しておられる人に助けて頂いて、無事に全部のセッションに参加させて頂けて嬉しかったです。
先生のお話も沢山聞かせて頂き、まだ整理ができず忘れている事も沢山ありますが、思い出し乍ら日常生活に活かしていきます。
やる前に「出来ない」と思ってしまう事もチャレンジに変化させていきます。

●円陣で歌。生きている感じ。普段の「これが自分」と思っているのは自分でも何でもない。
日野先生が著書の中だったかブログだったかで「関係している状態が、別の言い方をすると『生きている』ということ」と書かれていて、これがその実際だ。
とすると、普段は生きていない、当然だ。
子供の頃の自分を思い出してみろ、昔の自分に負けていると思うと悔しいなぁ。
さらに考えると、昨日の懇親会で太郎さんの質問に対して先生が「コップを丁寧に触るがあるわけではない。状況によって変わる」という事と同じで「相手に声を届ける」というものがある訳ではない。
それを具体まで落とし込んでいかないと日常で稽古は出来る筈はない。
自分などに関わってくれた皆様。
みんな素晴らしい人達でした。
今回もありがとうございました。

●全体合唱?では、全く異なる歌であるにも関わらず、徐々に一つのものとしてまとまってゆくのを感じた。
お互いがそれぞれに正面の人と向き合い、声を届けようと懸命だった。
30分以上歌う事を続けていたのだろうか?私の喉は限界だった筈なのに、皆も同じ状態なのにしっかり声が出て、一体感が増していた。
皆の声が大きな渦になって六角形の天井へ龍が空を昇るように上昇していくように感じた。
私もこのパワーに乗って、人生を生き抜いていきたい。

●前に「武禅」に参加して日常に戻ってから、全く「武禅」での稽古を意識していなかった。今までも、セミナーや勉強会に参加してもその時だけで、全く振り返りや復習をしていなかった。
それなのに変わりたい‼人ともっと関わりたい‼等の自分勝手な事ばかりでした。
そして、人に変えて貰えるまで待っている。本当に自分の癖、生き方の癖がそのまま出ていました。
次また「武禅」に参加させて頂くまでに自分で意識して、人と真剣に関わっていきます。

●声が出ない→声を出してないだけ等、自分が勝手にやっておいて、出来ない、やってない。そもそもそれに気付いていない状態で過ごしていた事も~~体験と写真、動画で動かぬ証拠として見てみると、こんなに薄っぺらなものかと衝撃的でした。
何れにしろ気付けた事と、その入り口に立てた事が、今回得られたものだと思います。

●関係性から全ては始まる。関係性とは一緒に歌うという事であり、お互いに拮抗する事であり、真剣に向かい合う、届けようとしなければ他人が存在していない為に自分も存在しない。そして届ける事は難しい。日々是修行であると思う。

●3日前の最初の向かい合いと比べると、全員に変化があった。
顔がクリアになった人、きちんとどこを見定めているか分かる顔、気持ちが引いてただ立っていたところから、前に向かって来ているのが分かるようになる人。
顔、人によって変化は様々ですが、向き合った時に相手がそのような顔であれば、こちらも自然と向き合ってしまう顔なんだと思います。

●「人は人を糧として人となる」正にこの言葉通りの実際を見て体感する毎回の「武禅」ですが、今回は特に皆さんが時間の経過と共に輝いていく、そんな「武禅」でした。
組んだ相手の方に「歌いやすくなった」と言って頂いて、相手に一生懸命にする事で喜んでもらえるのが、本当に嬉しく感じました。

●一人一人がぶつからないのは、本当に心地の良いものだと感動しました。

●最後の合唱。最後の歌、最高の一時。皆が一つになる素晴らしさ。私はこの瞬間が大好きだ。関係?共鳴する為に生きている。

●声の指向性と気分の方向性。色んなものが交じりあって、何か新しいモノ(場)が出来上がるのを自分の目で観て体験できた事は、今までにないモノでした。

●全員で歌うのは、これだけ沢山の曲を一緒に歌っているのに、皆の気持ちが一つに向かっていてもの凄くパワフルな歌声の渦になっていた。
歌う前は、声が枯れて出なかったのに、相手に強く届ける、ちゃんと聴くをしていたら、自分の声が体の奥から意思を持って出て来た。
自分にはこんなしっかりした声が眠っていたんだと驚いた。
本気になって一瞬一瞬を出し切る事が、自分も周りも輝かせる事なんだと体験した。