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色々あって当たり前、
何年か前、10年になるかな?フランスから大阪・伊丹に戻った。バッグを取り、外に出ようと1歩2歩歩いた時、急に胸が痛くなり動けなくなった事がある。 その時は、しばらくそのまま立ち止まっていたら痛みは去り歩けたのでそのまま家 […]
目的から湧き上がる問題を一つずつ消していくと
身体には関節があり、それが目的に応じて動いてくれる。
その動いてくれる「動き」は全て癖だ。
動きの癖だ。
何時の頃からか、その辺りを解明しようと思った。
そういえば、「正しい動き」を習った事も学んだことも無い事に気付いた。
もう少し考えると「正しい動き」というものは有るのか?だ。
仕事とは、「私そのもの」だから充実しているのだ。
「生活レベル」という言葉。
自分の生活レベルを下げたくないそうだ。
というのは、若い人の話だ。
私は、ワークショップでも教室でも、場にそぐわない人は断る。
それに驚く人がいるのに、こちらが驚く。
場を乱す人、組稽古で相手の人の稽古が出来ない人は帰って貰う。
受講する人皆が、自分の時間とお金を使っているのだから、そこを乱す人は、場には不必要だし、その人に向いていないからだ。
そういう私を知っている人が「帰したら収入が減るのではないですか?」というキッカケからの話が「生活レベル」云々になったのだ。
充実のワークショップは終わった。次は大阪夏の陣
冒頭で書いた様に、多種多様な職業の方が受講してくれていた。
獣医師や看護師、整体他といった医療系、作曲家や映画監督、シナリオライター・俳優、声楽家・ダンサー等の芸術系、ビジネスや主婦、プロゴルファーや格闘技、武術等のアスリート系。本当に間口が広がっている。
共通するのはもちろん「身体」と「人間関係」だ。
いずれも、自分の頑固な頭との葛藤を要求しているので、そこが難しいが、そこに気付いた人は、誰とでも稽古が出来る。
その言葉に違わず、組む相手を変えてどんどん「何かを掴もう」と奮闘していた。
いずれにしても、しり上がりに密度が濃くなり、受講生は名実ともに「関係」を堪能していた事が一番の収穫だ。
武道が教えてくれる柔軟な考え方
武道には返し技や変化技がある。
その究極の目的は、どんな攻撃にも対処できる思考と身体を作り出す事にある。
しかし、大方は「返し技」や「変化技」として習得し、結局は色々な技と横並びになってしまい、変化できる「私」にはならない。
そんな事に気付いた時、稽古の方法を深く考えなければいけないと思ったのだ。
巷では「変化に対応する柔軟な考え方」を持たなければ、今後の世界の変化に対応できず取り残される、と囁かれている。
それはその通りだと思う。
古流宗家との出会いは、新たな発見への糸口になるかもしれない
先日、日本の伝統武術古流の宗家とお会いし、少し交流の動きをした。また、古流の型を披露して頂いた。 宗家自身に興味を持ったのが、対談のきっかけだ。それは、フランス・パリでホームレスを3年間もやっていたという経歴があった事だ […]
自分を変えるのは簡単と難しいと2通りある
難しい挑戦だというのは、考え方を根本から変える必要があるからだ。
この根本が難しいのだ。
それは、ある状況でないと、その考え方は浮かんで来ないので、隅々まで気付こうと思えば相当時間も行動も必要になる。
武道の話になるが、幕末の達人白井亨が、自身の日記で「出来たと思っていても、強そうな相手と立ち会うと、たちまち元の自分が現れ力んでしまう」と書いている。
この「出来たと思っていても」の「思っていても」がある限り、根っこは深いという事なのだ。
もちろん、「力んでしまう」と自己観察出来ているのだから、相当レベルは高いのだがそれでもまだ自分を変えてしまう事は出来ないのだ。