子供には出来るが
沖縄ワークショップを終え、台風の隙間を縫って東京に戻った。
熊野の道場は、台風情報を見る限りまともに目が通過している。
道場に戻るのは来週になるので、雨漏りや屋根が壊れているのをみるのが怖い。
沖縄ワークショップに限らず、武道の稽古でも身体や関係のワークでも、その場で「出来る」人が出る。
出来ないのが殆どなのだが、10年間ワークショップに通っていても出来ない人は出来ない。
それは武道でも同じだ。
何が違うのか?
それを想像する事はできても実際のところは分からない。
その意味で沖縄ワークショップは、子供達も参加する事があるので「子供には出来て、大人には出来ない」という違いが現れる事が有り興味深い。
しかし、この場合の子供は、バレエの先生の生徒だ。
だから、ある意味で関りの無い「子供」ではない。
でも、だからといってその子供全員が出来るのではない。
1人か2人が出来るのだ。
そこからでも、大人には出来なくて、子供には出来るとは言える。
今回のワークショップでは中学2年生の男子が受講してくれていた。
前回のワークショップにお母さんが連れて来て、何か分からないがその子には良かったらしい。
で、今回も受講することになったが、詳細は知らないが、その男子が自発的に自分の小遣いから受講費を出したそうだ。
それだけでも「やる気」があるのが見える。
ただ、相手に歌を届けるとか聞く、というのは思春期真っ只中の男子には難しいと思う。
照れや恥ずかしさが勝って、相手の目を見て等出来るものではない。
何しろ自意識が幼いから仕方がないのだ。
「相手の流れに乗る」は、もっと難しい。
流れを感じ取り、その流れに乗らなければならないからだ。
それでもその子は、私を手本にしてワークに集中していた。
結果、難関の「相手の流れに乗る」が出来てしまったのだ。
もちろん、10年の常連達には相変わらず出来ない。
その子がその時に「何を感じ・どうしたのか」あるいは、「どう思ったのか・どう考えたのか」もちろん、言葉化出来ないのだが、その子に食い下がる事で、何かしらのヒントを得る事が出来る筈だと思うのだが、大人達、特に男性はそうはしない。
その姿勢だけでも「何をしにワークショップに来ているのだろう?」と何時も思う。
「関係」を「学び」に来ているのだろうとも思う。
「関係」を実行、もしくは「実現」させてこその言葉なのだが、「学んでいる」だけだ。
学んでどうするというのだ。
子供は遊びと同じレベルで出来ているし、同じレベルだから出来るのだ。
思考や理解とは、一体何に役立つというのか?そこをじっくり考え直す必要があるのだ。
もちろん、子供達が出来てもさほど意味も価値も無い。
できるのは、感性が鈍っていないからだし、「関係」という事で悩み苦しんでいないからだ。
「関係」を考えざるを得ないようになって、初めてこのワークが意味を持ち価値を持つからだ。