武禅・自分を知る

武禅・自分を知る
出来ない自分に泣くのではなく、出来ない自分にしてしまった自分自身に泣かないといけない。

結局「武禅」は、自分と向き合う為のものだ。しかし、中々そうはならず「どうすれば?」になる。その自分を壊せ!!その為のワークなのだが、明後日の方角に行く方が多い。 今回は最終回だった。レポートを読んでいると、ピッタリのもの […]

続きを読む
武禅・自分を知る
人は関係してしまうのだ。そこに必死があれば

昨日は、疲れが出て意識朦朧状態だった。今、皆が書いたレポートを読んでいる。皆が一緒に取り組んだ一つのワークに対して、それぞれの視点、それぞれの感覚が異なる事が良く見えて、本当に人の違いがよく分かる。 一つの言葉を投げかけ […]

続きを読む
武禅・自分を知る
ちゃんと私に話しかけて下さい!

100回目の「武禅一の行」は終了した。 同時に「武禅一の行」は今回で終えた。 「あなたは私の前にいません」 「ちゃんと、私の話を聞いてください」 「私に話をしているのですか」 「私には届いていませんよ」 そんな「武禅語」 […]

続きを読む
武禅・自分を知る
最後の晩餐へ

1998年7月に始めた「武禅一の行」が、明日で100回目を迎え、一応終了する。世間とは真反対で、上っ面を完全排除していく行だ。上っ面を見破り、「何、いうてんねん」と正面から突っ込むのだ。 「誰に?」「誰が?」ここを徹底的 […]

続きを読む
武禅・自分を知る
本当か?

偏見ということで、興味深い記事があった。https://forbesjapan.com/articles/detail/17905 こういう偏見の根本的な辺りは、殆ど無自覚だ。もちろん、偏見の根本という視点ではなく、別の […]

続きを読む
武禅・自分を知る
挙動不審と思われても関係ないで

成長の自動運動は、日常は何も変わらない。誰かが見ても、ということだ。でも、しまいには何をやっているのかは分からなくなる。 「日野さんは何時稽古をするのですか?」と聞かれると、「何時も」と答える。その何時もになるということ […]

続きを読む
武禅・自分を知る
成長の自動化

「一を聞いて十を知る」という言葉がある。これは想像力の問題と同時に、全体と部分という構造だ。つまり、全体を知っていなければ、部分は分からないという話だ。また、部分を知ることで、全体を想像できるという話でもある。 一つの事 […]

続きを読む
武禅・自分を知る
現場を持っていても、持っていない人もいる

現場を持っており、自分に突き付けられている環境があったとしても、自分に突き付けない人もいる。 もちろん、それも自分では気づいていない人だ。 これは厄介だ。 自分で気付いていないのだから、「あなたはこうですよ」と第三者から […]

続きを読む
武禅・自分を知る
出来ているつもりは

「知っている」のと「出来るようになっている」は、誰が考えても同じではない。 というよりも、全く違う。 しかし、人間というのは厄介な生き物なのだ。 始終言葉にしたり、そんな話をしていると「出来ていると錯覚する人がいる」よう […]

続きを読む
武禅・自分を知る
わたしと私、何時で会うのだ?

わたしの対象者がいなくて、全てがわたしの思いにとって代わる。 これは、一言でいうと自意識が幼稚と片付けられる。 しかし、それは本質だが直接そこには手を出せない。 幼稚ということの症状を一つ一つ改善するしかないのだろう。 […]

続きを読む