愛を持たない
「明鏡塾」5期生5月開講、募集を開始しました
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今、急いで「武禅」での皆のレポートを読み返している。
当たり前の事だが、そこで何を学び取るか、あるいは、何を獲得するか、というところでの目的が明確な人は、明確なレポートになる。
明確では無い人のレポートは、それこそ何を書いているのか分かりにくい。
それこそ、こちらの推理能力を限界まで働かせなければ読み取れないものもある。
面白いのは、そういったチグハグな状態で行は進行することだ。
つまり、社会と全く同じ状況がそこに現れていることだ。
そんな中で、自分は他人にどう対処するのか、という、社会生活の実践的実力も同時に試されていることになるのだ。
そこが、巷のセミナーとは全く異なるところである。
話が通じない人もいる。
それはAさんとは通じないが、Bさんとは通じる、という状況もある。
しかし、それは通じると思っている人の単なる思い込みだ。
「通じると思いたい」という思いが、そこに現れるということだ。
そんな時、どうして「分からない・理解できない」と発さないのか。
それも稽古の一つなのだが、大方の人はここの垣根を越えようとはしない。
もちろん、「分からない・理解できない」と発するということは、自分自身の理解力や気持ちを察する能力も同時に試されている。
それを無意識的に感じているから、試されるリスクを冒さないのだ。
それは、いわゆる「他人からよく思われたい」とか「他人から嫌われたくない」「他人と違うとは思われたくない」というような、自意識の幼さがあるからだ。
だから、いくら「武禅という場は、非日常で稽古の場である」といっても中々難しいのだ。
しかし、それが出来ないということは、自意識が幼いということで片付けられる問題ではない。
他人という存在に対して、何一つ本気で関わらないということだからだ。
それこそ、「愛」を持たないということだ。
大阪ワーク・ショップは5月5.6.7.8日、東京ワーク・ショップは6月2.3.4.5日です
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