99回武禅が終わりました
2泊3日、99回「武禅」が終わった。
連日深夜4時前まで宴会。
一升瓶が空き、焼酎や泡盛もどんどん無くなっていった。
もちろん、毎回宴会は違うのだが、今回は特に違った。
何とはなく、初参加の人も交え、チームワークのようなものが出来上がっており、あちらこちらで談笑が多くあった。
今回もカナダや沖縄、九州、関東方面、ほんとに色々な場所から集って来ている。
おかげで、初参加を試みた人が常連の人達の申し込みの早さに後れを取り、キャンセル待ちになったり、最後は締め切り後の申し込みが相次いだ。
そうなると、数少ないが初参加の人は、やり易くなる。
常連の人達でもレベル差があるから、よく観察できる人なら、そこを選り分ける事が出来るからだ。
つまりは、数の問題ではなく質の問題だからだ。
質は、自分の発見した問題があり、それに日常でどう取り組んでいるかの結果だ。
今回は「明鏡塾」から二人の治療家が受講していた。
彼らは自分は何者であるか、ということを自覚する、ということがどれほど重要かを「明鏡塾」で、知っているから「どう取り組むか」の姿勢が整っている。
その分、漠然と受講している人、想いだけで受講している人よりも発見が多い。
結局のところ、生きるということは、そこに尽きるだろう。
ここ数回、続けて参加している一人の男性が、誰の目にも明らかな変化を見せていた。
もちろん、良い意味での変化だ。
人はこうまで変わるのか、という手本のようだった。
セクションの中で、受講者の可否を検証する。
これが良いとした場合、これは何が間違っているのか。
皆が意見を言う。
それを聞いていて、やはり「人は自分の見たいことしか見えない」という事がハッキリした。
例え、何を見なければいけないのかを分かっていても、それを伝える言葉が相手に理解出来なければ、結局分かっていないのと同じ結果を生む。
「武禅」は厳しい。
しかし、それは取り組む人が「厳しい目を持つ」かどうかだ。
つまり、同じ出来事を体験したとしても、どんな視点で体験したかどうかで、その体験内容や、体験そのものが変化するということだ。
私が誰かの話を聴く。
その誰かは「話しやすかった」とコメントする。
しかし、それを見ている他の人達からは、私が話を引き出していることが見えていたりする。
あるいは、完全に相手と一体になっている事が見えていたりする。
そうすると「話しやすかった」と結論付けた人には、そういった「関係性」の機微は体験出来ていないということだ。
次回の「武禅」は100回目になる。
多くの人が「武禅」を受講してくれた。
それを日常に使い、人生を切り開いている人もいる。
自分の可能性に気付き、新しい人生を送っている人もいる。
自分を立て直した人もいる。
思えば、20年近く続けてきた「武禅」だが、形を変えるか、あるいは、止めるか。
「武禅」は、私にとっても刺激になる行会だ。
毎回初めて出会う人があり、あるいは、続けている人の変化を知ることで、同じカリキュラムだが内容を深くしたり、変化させたり出来るからだ。
実際、私自身も「武禅」を通して、皆と一緒に成長しているし、変化もしている。
だから、有り難い行会でもあるのだ。
その意味では、止めるのはどうかとも思うのだが。