自分らしく

今回の「武禅」には、「明鏡塾」の受講者も2名参加していた。
両名にとって、相当刺激になったようだ。
同時に、常連の人達にとっても新鮮な驚きと共に、自分に対する甘さを認識した人もいた。
それが場であり、関係性の一端だ。
いずれにしても、99回目はかなり絞られた行会だったことは確かだ。
何時ものことだが、初参加の人のレポートで象徴的なレポートがある。
『「座れ!」のワーク。座れと言っている自分の写真を見る。「何だこの表情は」と思う。自分ではふざけているつもりはなかったのに、完全に半笑いでふざけている表情をしていたことに驚く。自分が思っている自分が、そのまま他人に見えている自分と同じではない事を思い知る。』
これは30歳前の青年のレポートだ。
誰でもこの通りで、他人が見ている自分を知らないのだ。
もちろん、意識的な表情、例えば、写真を撮ると決めて撮った時、あるいは、化粧をする為に鏡を見る時の表情等は、誰でも知っているだろう。
しかし、自分の知る表情は、1日24時間の中の極々一部でしかない。
しかも、意識的な面だ。
だから、普段の表情ではない。
行会のように写真や動画を多用すると、そこに映る自分の姿に驚くのだ。
その写真に写る姿を他人が見て、その人だと認識しているのだ。
であれば、どう見えるようにするのが良いのかを、頭の中から外に出す必要があるだろう。
もちろん、それぞれの人は社会で生きている。
そしてきっと友達や仲間がいる。
職場もあるだろう。
つまり、限られた場の中では、その姿が通用しているかもしれないが、それが他の場に移った時、残念ながら通用しないという事態が起こるのだ。
しかし、もった考えなければいけない。
本当に通用しているのかどうかを。
これはどこででも話す事だが、誰もが誰かに本当の事を言わない、という実際だ。
それは自分が他人に本当の事を言わないという事を思い出せば分かるだろう。
「一体、あなたは誰に話しかけているの?」とは言わないだろう。
だから、通用しているもどきになるし、それがクセ化され、通用していると思い込むという一面もあるのだ。
それは相互に顔色を窺って生きているということに他ならない。
もちろん、それが辛くないのなら、疲れないのならそれで良いと思う。
しかし、その生き方のどこに「自分」や「自分らしさ」があるというのだろうか。

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