目を閉じる、目を開ける。そこにある感覚器官の違いは何だ?
それを目を閉じて、皮膚を接触した状態を作り、その皮膚が離れる瞬間に動く、をやると一瞬遅れる。
これはどういうことだろう?
先日の稽古の時に発見した出来事だ。
瞬間(同時)に動いていたと思っていたところに、一瞬の隙間があったのだ。
もしかしたら、皮膚感覚だけに集中してしまっているからではないか?
生徒との検証時に気付いた。
今の今まで気付かなかった事に苛立つ。
武道の稽古の難しさは、自分自身への挑戦だ
もちろん、稽古はスピードを落としゆっくりと行う。
問題は、その「ゆっくりとした動き」を、スピードが出ても同じ具合に出来るのかどうかだ。
そうなると、その「ゆっくり」にスピードを見出さなければならない。
ここが難しいと言えば難しいところだ。
当たっても痛くも無い「ゆっくり」に対して、「痛くも無い」と無意識的に判断して稽古をしていると、スピードを上げると本当に当たるし痛いではすまない。
そんな想像力が、武道の稽古では必要なのだ。
でないと、稽古が違うものになっていく。
引っ越しで部屋中段ボール箱だらけや
引っ越しで部屋中段ボール箱だらけ。
放るもの、置いておくもの、「ええい、めんどくさい」生活をするのに、これほど道具がいるのかと思う。
ジャズでツアーをやったりすると、スーツケース一つで何日間も生活をした。
火事で焼け出された時、手鍋一つ買って生活をした。
生活というか何かが安定してしまうと荷物が増える。
自分に突っ込みを入れられる客観性を持たなければ成長しない
「私自身」の頭の中に対して疑問を持ったのは20歳の頃だ。
当時、ジャズについて音楽について等々。
また、それらのアウトサイダー的な評論の書籍を読み漁っていた。
結果、「こいつ何を書いているんや」と思った事もあったので、私自身の考えている事をレポート用紙に書くようにした。
その書かれた文章を後日読み返した時に、それこそ「こいつ何を書いているんや」と、自分の文章に突っ込みを入れずにいられなかった。
そういった事を数年繰り返した。
もちろん、今もそれは続いているが。
その時に、自分自身の文章の幼さや論理の飛躍他に気付いていったのだ。
つまり、自分自身の頭の中に疑問を持ち続けているという事だ。
自分なりにしか考えられないし解釈できない、そこに必要なのは客観性だ
人はどんな場合でも「自分なり」にしか考える事は出来ない。
そして「自分なり」にしか解釈できない。
つまり、どこまで行っても「自分勝手」なのだ。
だから、その事が「厄介な生き物」になる原因の一つで、私を含め誰もここをすり抜ける事は出来ない。
だから、余程の客観性を身に付けなければならないのだ。
この事に気付いたのは、30歳になった辺りだ。
やれる事をやる、やり残している事をやる、
私のやれる事で、今一つ皆の役に立っていなかったのが表現の世界だ。
折角、2005年から解散するまで毎年ドイツのフォーサイスカンパニーに、指導をしに行っていた事が、日本のダンサー達には手が届かなかった。
それは、当時の私自身の分析能力が低かったのと、ダンサー達が自分で考えるというところが大きく欠如していたからだ。
海外のダンスの先生達や、フォーサイスカンパニーに所属していた当時のダンサーの大半は、私のワークに興味を持ち日本まで個人レッスンを受けに来る人までいる。
次世代は、当たり前の事、「情熱」が格差を広げるだろう
そして、一番感じたのは、「意味や価値から」は古いという事だ。
古すぎて何を言っているのか分からない、そんな印象だ。
もちろん、最先端の勉強をしているだろうし、情報も持っている。
がしかし、それはAIがはじき出せる範疇であり、そこを脱するアイディアではない、つまり、古いのだ。
というと、次世代は何?となるだろう。
それは次世代ではなく、人間の持つ普遍的な感情であり情熱ありき、それを湧き上がらせる好奇心だ。
これらでしか「人を人足らしめない」のだ。
そして、その情熱から発せられた「私」は、間違いなく多くの人を巻き込み、応援を巻き込むのだ。
大晦日に一寸振り返る
そういえば「究極の体重移動」を発見したか。
自分自身の身体を動かす時、何かしらの意識が働く。
そこを最小限度にした場合、その体重移動は相当な力を発揮する。
たった10cm動かすだけで、自分でも驚くほどの結果があった。
これは、熟練者向けの身体操作だ。
「私」を認めるのも、存在たらしめるのも全て「私以外」の他人だ
世の中は「私」を大切にする事に向かっているが、その「私」を認めるのも存在している事を認めるのも、「私」ではなく私以外の「他人」だという事を忘れてはならない。
つまり、「関係」が何よりも大事なのだ。
基礎稽古と最高級難度の稽古
身体操作に関しては、身体そのものが動きと共に強烈な伸び縮みするようにならなければ駄目だ。
武道の型は、武道に適した身体を作る為に有ると私は考えている。
もちろん、ジャンルにより様々な道具や武器を持つもの、刀や身体の捌き方を教えるもの、こころの持ちようを教えるものもある。
しかし、こころの持ちようを抜けば、現代では無用の長物だ。










