自分なりにしか考えられないし解釈できない、そこに必要なのは客観性だ
人はどんな場合でも「自分なり」にしか考える事は出来ない。
そして「自分なり」にしか解釈できない。
つまり、どこまで行っても「自分勝手」なのだ。
だから、その事が「厄介な生き物」になる原因の一つで、私を含め誰もここをすり抜ける事は出来ない。
だから、余程の客観性を身に付けなければならないのだ。
この事に気付いたのは、30歳になった辺りだ。
そこから自分自身を振り返ると、結構上手に客観性を身に付けていた事に気付いた。
自分勝手に考えるのだが、その考えのレベルや世界観の狭い広いは、誰かと比較しなければ、あるいは、本などと比較しなければ気付けない。
自分を否定する、という事も、この比較があるから出来るのだ。
自分を否定するというのは、レベルや世界観の話だ。
私が無意識的に客観性を持てたのは、客観的にならざるを得ない材料に取り組んでいたからだ。
中学の頃の器械体操だ。
競技だから自分勝手であっても、そこに決められた種目や採点をクリアしなければならない。
これに熱中した事が、現在の私の土台になっているというよりも、土台にしたのだ。
もちろん、時間軸的には60年以上も前の事だから、器械体操は間違いなく土台だ。
しかし、「土台だ」という事を自覚的に捉え、体操に取り組んだ過程を振り返る事で、時間軸としての土台が、「私の」土台となるのであって、そこを放っておくと単なる通り過ぎた時間でしかないのだ。
何度もブログや拙著で書いているが、中学からの器械体操は独学だ。
仲間達3人で「体操」を共有し、研究探求したのだ。
私自身が先に取り組み、その過程を共有する方法だ。
結果、やりにくい、成果が出ない、難しい等の感想があり、また考える。
この場合、考えると言っても「身体で」であって、頭の中でではない。
そういった事を繰り返していった結果、先輩や顧問に習っている生徒よりも自分達の方が仕上がっていた。
競技に出た時には、自分達3人の方が良い結果を出したのだ。
私は、大阪市の代表を取り、三都市大会では鉄棒で最高得点を叩き出した。
しかし、大事な事はこれらの結果ではなく、自分達3人は間違いなく「自分で考えて身体で結果を出す」という宝物の根っ子を養った事だ。
もちろん、この「自分で考え」は自分勝手に考えたのだ。
だが、振り返ってみると、その考えは「体操競技」と書かれた本を参考にし、自分達で展開させたものだ。
つまり、考える道筋の結果はその本であり、自分達は結果に至る過程を身体で作り出したという事だ。
もちろん、その本には「どうすればできるか?」というような、馬鹿みたいな事は書かれておらず、オリンピック選手の完成形だけがあった。
ここの過程は、常に「自己否定」であり、考えると同時に身体を動かすという客観的検証があり、自分達で比較し合う、という連続だったのだ。
否定されたから、どうのこうの、という暇な時間は一切なかった。
否定されれば、即座に違うアイディアを出し、また検証する。
その連続なのだ。
それらが、客観的検証という考え方を養ったのだと思っている。
その時期に、「他人と比較する」という目を完全に持った事も現在の私の宝だ。
そして「自分なり」という勝手な世界が、客観性を持つ事でざるの様に駄々洩れ状態になり、自分の枠が取り払われるという事を知った。