自分に突っ込みを入れられる客観性を持たなければ成長しない

「私自身」の頭の中に対して疑問を持ったのは20歳の頃だ。

当時、ジャズについて音楽について等々。
また、それらのアウトサイダー的な評論の書籍を読み漁っていた。

結果、「こいつ何を書いているんや」と思った事もあったので、私自身の考えている事をレポート用紙に書くようにした。
その書かれた文章を後日読み返した時に、それこそ「こいつ何を書いているんや」と、自分の文章に突っ込みを入れずにいられなかった。
そういった事を数年繰り返した。

もちろん、今もそれは続いているが。

その時に、自分自身の文章の幼さや論理の飛躍他に気付いていったのだ。
つまり、自分自身の頭の中に疑問を持ち続けているという事だ。

死ぬまでに、突っ込みを入れずにすむ自分になれるのかどうかは疑問だが。

論理が飛躍してしまう原因は、言葉だけで考えているからだと気付いたのは、器械体操の過程を持っていたからだ。
しかし、あるレベルでの論理の中で飛躍すると、それこそ何も繋がらないが、一方で論理は飛躍するものでもある事も器械体操練習の過程を振り返った時に気付いた。

それは、昨日迄出来なかったことが、いきなり出来るようになっていたり、他の事が練習していないのに出来たりした体験があるからだ。
もちろん、そこには身体運動とそれを考える思考との同時進行が、私自身の隅々に浸透したから、私の好奇心の向く方向の事が練習していないのに出来ただけだ。

本を読んだり自分で書いたりしていると、一定の次元だけで物事を書けない事に苛立ちを覚えた。
全ての物事は構造的立体的だからだ。

その構造は一定の次元では現せない。
もちろん、本当に物事を考えている人達は、現せているかもしれないが、残念ながら私の頭では無理だ。

武道を稽古するというのは、この構造を理解するという事でもある。

体重移動というある種の全体は、両膝を同時に使うし、上半身に緩みを持たさないように胸骨を使う。
また、体重移動の方向は意志や意識が決めるし、相手のどこにその体重移動を作用させるのかも意識が決める。
その事の全身に関わるのは感覚であり、感覚がそれ等全部を統御している。

これらを並列で考える事は出来るが、それは思考だけの話で、実際はたった一つの動きの事だ。

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一寸畏まって

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