出来ない人の特徴は「自己完結」の達人だからだ
例えば、「肘を動かす」という定番中の定番の稽古をする。
誰かが、腕が動かない様に抑えつける。
その腕を下に降ろしてしまうというものだ。
ここにある稽古の一つは、自分の身体の一部である肘部に任意の感覚点を作り、そこを感覚するというものだ。
もちろん、小学生でも分かる日本語だ。
ここが落とし穴だ。
頭は完全に間違いなく理解する。
すると「出来る」と思い込むのだ。
理解したら出来るという、図式が現れるのだ。
もちろん、理解したら出来る人も居るし、理解しても出来ないという事を理解している人もいる。
理解出来る人達は、身体を使う仕事とか、スポーツ他である程度身体部位に注意を向けなければ出来ない事をやっている、あるいはやってきた人達だ。
それ以外は無理だと思う。
どれだけ簡単で単純であっても出来ないのだ。
出来ないのは、出来ないという事を知らないからだ。
自分自身の人生体験が浅いからというのもある。
知らない人達は、当然の事だが稽古の方法を知らないし、分からないからそれを生み出す事も出来ない。
意味の無い繰り返しをするくらいだ。
何よりも、自分がどうしているのか、どうなっているのかに意識が向かないのが致命的なのだ。
体験者は、稽古を組み立てる事が出来る人もいる。
その違いは大きい。
しかし、こういったことの中にももう一つの大きな壁があった。
それはルールだ。
ルールの中だけで、限定された動きや働きだけをやっていた場合、全く運動クラブを体験していない人と同じ様に、何も考えられない人もいるのだ。
その意味で、人は分からないのだ。
自分で自分を分かるのも難しいのだ。
人に対して一般化された考え方や言葉は当てはまらないのだ。
そして、それが普通である。
にも拘らず、自分や他人を十把一絡げにしたがるのはどうしてだ?
出来て行かない人達を見ていると、一つ共通点がある。
それは、他人を参考にしない事だ。
参考に出来ない、参考にする能力が育っていないのだ。
自分だけで考える、あるいは、その時の一緒にする誰か、その誰かが熟練者でなくても、「言葉を交わせる」という理由だけで、他者と壁を作り二人だけで楽しむ事が共通しているのだ。
「自分だけで考える」のが悪いのではない。
考える知識も智慧も無いのに、こねくり回すのが駄目、手本や他人を参考にしないという閉鎖的な行為が駄目なのだ。
私の稽古時間で言えば、特に重要な形や動きは1時間は使う。
だから、1時間経った時、見事に間違った形が出来ており、他の人達を参考にも手本にもしないから、それすらも分からないのだ。
もしも、これが高校生までなら、指摘をする。
しかし、30代以上の人には、それなりに社会適応性を備えていると尊重しているので、何も注意はしない。
するとしたら「何を考えているんや」くらいだ。
もしも、私が知らない事、知らない場所にいけば、慎重だから必ず観察する。
どんな人が、どんな取り組み方をしているのか?
あるいは、直感的に仕切っている人や、要領の良い悪い等を先に見分ける。
それから、やっている事をじっくり観察してから取り組む。
それが知らない場に取り組む鉄則のようなものだ。
一人で生きていると、そんな事を自然に身に付けてしまうのだ。
一人で生きているというのは、どのルールにも適応できるという事で、それを社会適応能力・社会対応能力と呼ぶのだと思う。
沖縄ワークショップは5月30.31.6月1日、
東京ワークショップは6月6.7.8日
