歩み寄るが、所詮付け焼刃だから
御茶ノ水駅を降りて明大通りを行く。
古いビルの4階。
そこが、もしかしたら次の道場になるかもしれないが、まだ分からない。
「古いビルの4階」は、道場をスタートさせた大阪の北浜と同じだ。
但し、大阪はエレベーターは、時々止まってしまうが有った。
御茶ノ水のビルには、エレベーターは無い。
武道の道場に、場所の良し悪しがあるのだろうか?と考えるとそれは無いだろうと思う。
場所に応じて、「どんな営業形態」を持つのかだけだ。
つまり、場所に適した形態にすればよい、ということだ。
ここが面白いところで、私は客観的にはそう考えられるが、私自身が「どうしたい?」から言えば、「適したように」側の思考は働かないのだ。
それは、フリージャズをやっていた頃、演奏場所は自分のコンサートと、前衛的なマスターのジャズ喫茶だけだった。
それでは食べてはいけない。
そこで、スタイルに工夫を凝らして一般の人でも聞けるようにした。
曲もリズムを明確にし、分かりやすくした。
かっこよく言えば、観客に歩み寄ったのだ。
もちろん、そんな事をいくらやっても、自分の中ではどうもこうもないから、さほど良い演奏になって行く事は無い。
それでも、その時の副産物として、フリージャズを聴きやすくする方法が出来た。
こういった「その場に合わせる」という即興の極意のような姿勢は、特にワークショップでは活かされている。
結果論的に見ると、胸骨操作、胸骨と肘、胸骨と背骨、胸骨と膝等々の連関は、身体を明確に連関させる為の手段だが、それを軸として、そこから多種多様な動きを作り出すフレーズでもあるのだ。
その辺りが、ジャズミュージシャンだと自覚する。
その意味で、核になる操作は一定数あるが、そこから色々発展するので、常連の人でも楽しめるのだ。
同時にもっと面白いのが、その核になる操作の精密度が、発展する数に応じて高くなる事だ。
これは、間違いなく指導する私の為にあるようなものだ。
「そうか、こういう操作も可能なのだ」となった時、同時に核に対する体感がより精緻になっているという事だ。