行動を見れば理解出来る
「自分を理解して欲しい」そんな言葉を持ったことも思ったことも無い。
きっと私が育った時期には無かった言葉だ。
言葉とはそれくらい生ものなのだ。
例えば、大阪では昔の女性は、自分の事を「わて」と呼んでいたが、今では死語だ。
方言なのだが、それすら消えていくのだ。
それくらい環境からの影響を受けてしまうのだ。
もちろん、生ものだから仕方がないが、自分自身が持っていない言葉を発せられたら困ってしまう。
あるいは、その言葉を持つ事で悩む人が出て来ると、これまた困る。
私にすれば、「それは知らん」で終わりだが、言葉を持って悩んでいる人にとっては「知らん」という世界に入る事が出来ない。
例えば、この「自分を理解して欲しい」は仕事に置き換えて見ると良く分かる。
例えば、私がジャズドラマーのボーヤ(見習い)の頃、時々曲を叩かせて貰っていた。
もちろん、レギュラーのドラマーの足元にも及ばない。
それが「自分であり、他人が理解している私だ」
だから、どうするかというと練習を積んでレギュラーのドラマーのようになる事で、「そんな私」だと理解して貰えるのだ。
それ以外に、自分を他人が理解する方法は無い。
その実際の行動を伴わないで、言葉だけで「こんな自分です」を説明する人がいるのには驚く。
その自分を説明しているとする言葉の信憑性はどこにあるのか?
そんな事にも疑問を持たない人が「自分を理解して欲しい」という言葉を使い説明するのだろうと想像する。
私は、講演などで自分のエピソードを話す。
それはエピソードの中にある「私」を想像という事で理解し得るからだ。
エピソードそのものは言葉だが、それは行動の軌跡でもある。
つまり、人は行動を見る事、行動をする事で他人との理解を共有する動物なのだ。