感性
対立しない、は、対立出来ないということではない
「相手と対立しない」というのは、武道の真髄でもある。 しかし、「対立出来ない人」になるのではない。対立しないというのは、逆にとことん対立出来るという事でもある。 また「腕力がある必要はない」とはいうが、それは腕力が無くて […]
当たり前の事だが、限界は常に自分が決めている
「身体の可能性?」と言えば「無い」、身体の「可能性を引き出すのは自分自身」だからだ。決して身体メソッドでもなければ何かしらの身体理論でもない。自分自身の目的や目標、あるいは、「こうしてやろう」という何かに対する意欲のよう […]
今日から「武禅」それこそ吠える2泊3日の始まりだ。
今日から「107回武禅一の行」だ。毎回常連達の顔を想像しながら進行を考える。 それこそ「どうすれば?」だ。どのやり方が響きやすいのか?これを考えるのは不可能なのだが、よりそこに近づけたいと思うからだ。 先日、知人が面白い […]
わだかまりがあるから思考を深くすることが出来るのだ
昨日の「わだかまりは有るだろうが」というところがポイントだ。
それが無ければ、思考も気持ちも強くも広くもならないからだ。
その「わだかまり」を考え抜き自分の力で解決する。
人生はそれの連続だ。
食い違いや行き違いは、思考の切り口の違いやレベルの違いが生み出す事が多い。
その場合は、お互いにじっくり話を理解する事で解消の糸口が見つかる。
しかし、感情のズレはそこで解決しても、相手に抱いた感情は残る。
その感情を基盤として「わだかまり」が発生するのだ。
だから、「こうすれば」という世間にある方法では解消できないし、それを外部の思考で解消するのは間違っているのだ。
自分が裏付けを生きていない人の言葉は気持ちが悪い
よく「最近の人は答えだけ、あるいは方法だけを知りたがる」という話を聞く。
もちろん、私も聞くし私も昔はそんなことを口にしていた。
今でも「面倒だから答えは?」という癖が残っている。
だからこそ、それでは無いという事を体感して来たともいえる。
そんな癖を持つ人、答えを直ぐに知りたい人、方法を知りたい人は、「それで何?」と自分に突っ込んで見れば分かって来る筈だ。
「自分で考える過程だけが大事な事」だと。
つまり、その言葉の裏付けが自分自身の経験として身体に残るからだ。
それが残れば、重要な事は自分の力で考えられるようになる。
よく「答えは無い」と話す。
それは、全て自分自身が出すものだからだ。
言葉に匹敵する「技」は、技能と捉えるから進化する
私自身が好きで探求している事、その経過の中で出来た事に興味は無い。
そこが終着駅ではないからだ。
ただ、「そうか、出来るやん」で忘れてしまう。
その意味で、武道の稽古の中で出来て行ってる事に興味はないという事だ。
つまり、達成感も喜びも、いわゆる自己評価も自己肯定感も無い。
そもそも、そんなものを持ち合わせていないからだ。
昨今の巷に溢れる「言葉」に、何の興味も持てないのだ。
それは単に何かを誰かが解釈しただけの「言葉」だからだ。
ブラックボックスの解明
目的の実現や実際の為に行為があるが、その「目的」を実際の行為として繋げるには、無意識的な作業があり、それが実現される。その「無意識的な個人の作業」はブラックボックスだ。 例えば、武道でいくらやっても上達しない人を見ていて […]
神田道場?「どうして?」
そういえば、2018年4月7日に東京の道場を神田に持った。「どうして?」 私が大阪に道場を持ったのが、40年程前だ。この道場は、私自身の武道に対する考えを実験する場だった。 やるべき事、考えなければならない事、やった中で […]
口の中で溶けてしまう美味しさ
不思議なもので、美味しいものは残念なものでもある。
というのは、口の中で溶けてしまうような感覚だから、食べ終わってから「何を食べたのか」が口の中には残っていないからだ。
これは初めての体験だ。
日常では、余程印象的な味のものばかり食べているのだろうと思った。
これは「力の衝突」と良く似ている。
手応えがあるのと、手応えが無いのとの違いだ。