自分の役に立てる
今日、フランスから来日していたクリスチャンが帰国した。
5月に1週間ほど稽古に来ると約束した。
その時は、友人も一緒だ。
「力を抜く事が良いのは、日野を見ていたらよく分かるが、空手を43年間やって来ているから、切り替えが難しいのだ」
と嘆きながらも楽しく稽古をする。
それは、イタリア系の人だから、そしてフランス人だからかもしれない。
決して深刻にならないところが一番の長所だ。
もくもくと同じ形を繰り返す。
体感を確認しているのだ。
身体能力に関しては相当高いので、身体の何を感じているのかがよく見える。
思い込みで稽古をしているのではない事もよく見える。
道場にいる古い生徒でも、何を稽古しているのかがよく分からない人はいくらでもいるから、そんな所がそれぞれに持っている時間が違って来るのだろうと思う。
何を稽古しているのか分からないのを、もう少し突っこんでいうと、何をしているのかが分からない、という事になる。
もちろん、頭では分かっているが、行動がそうなっていないだけだ。
ここをくっつける話は、口が酸っぱくなる程話しているが、殆どの人には「良い話を聞いた」であって、自分の役には立てていないのだ。
「武禅一の行」でも、徹底するのは「何をしているのかを知る事」だ。
その自分自身の一歩を知らなければ、補助も修正もしようがないからだ。
「武禅一の行」5月3.4.5日、定員の半分になりました。