自分を労わるというのは
「自分を労わる」のは好きだ。自分を労わる、それは次に進む事だからだ。 次に挑戦する。「今」出来ない事を出来るように、それの連続だから、私はずっと労わって生きていると思っている。 もちろん、ここで「労わる」の解釈の色々があ […]
自分の力で問題を見つけ解決する、それしかない
昨日の稽古は、久しぶりに北海道からの若者が来ていた。牛の話馬の話等、動物の話で盛り上がった。 動物に「起こり」はあるのか?というような話だ。そんな話をしていると、昔飼っていた犬を相手に「起こりを抑える」稽古をした事を思い […]
人の違いを見分けられない原因は
武道でもワークショップでも、何れにしても人へのアドバイスは難しい。AさんBさんCさん、それぞれに個人が違うからだ。 Aさんに対するアドバイス、BさんCさんへのアドバイスも全部違う。それらのアドバイスを他の人も耳にし、それ […]
3,000人もの感情の高ぶりをまともに浴びて「何も感じない」人などいるのだろうか?
もしかしたら「出来ない」と口から出るのはましなのかもしれない。何とも思わないし、感情も動かない人がいるからだ。 それは20年ほど前の「武禅」を受講する人を見ていて薄々感じていた。完全に実感したのは2004年に愚息の和太鼓 […]
その言葉を自分自身が使い続ける事で、「そんな」自分だと自己洗脳しているだけだ
一つの動きを完全に出来るまで挑戦する。スポーツなら例えば、バスケットで3点シュートが一定の場所からだと絶対に入れるようになる。 こんな事は当たり前のように練習を繰り返す。サッカーでも同じだろうと思う。入れたいし入れなけれ […]
次の事より今の事、今に全力を集中すれば次は良くなる
「次の事を考えた今の動き」になっているからだ。
今の動きで相手の次を無くしたり、相手の次が来ても今の完全な姿になっていれば対処出来るのだが、大方はそうはならなくて、「次の相手の攻撃を交わす今の動き」になり「今の動き」ではないのだ。
基本が大事だと言うが、本当に基本をやり込んでいないから、次の対処も今の対処も出来ないのだ。
一つの事を亀の歩みのようにゆっくりと堪能しなければ、身に付く事はない。
そんな事をしみじみと感じるのが、武道の稽古だ。
自分を貫いて生きる、その為には世間とは全く異なった価値観を持つ事だ
その根源は「美意識」だ。
言葉を極端に変えればスタイルになるか。
私が今日までブレていないのはこれだ。
仕事に対してとか何かに対するものは持ち合わせていない。
自分の人生は自分のものだ。
その自分に対して何を求めるのか?
そんな事は10代で決定していた。
その意味で75歳の現在でも変わっていない。
真っ直ぐ飛んでくる視線、それが関係の基本だ
会話の多くのテクニックはそもそも「聞ける」・「話せる」・「触れられる」ということを前提にしてますが、そもそも聞けていない、聞いているつもり、聞こうとしているといった状態の時に、何を添付しようが、付け焼き刃。となると、自分自身の「意識」たるものを相手に注ぐ。まずはそこから。
世間とは一線を引いているからのもの
「相手の中に入る」は、最高級難度なのだが、一人が出来ると皆んなが出来るようになってくる。
「場」に影響され「人」に影響され、知らず知らずの中に出来てしまうのだ。
それでも「まだ考えたらあかんで」という。
それは、その人の頭のプログラムが明確に書き変わってからでないと、元に戻ってしまうからだ。
飲み会で一人のベテラン柔整師が「意識や無意識を考えるようになり、治療の方法や治療を長時間やっても全く疲れなくなった」と話してくれた。
確実に進化している人を見るのは、こちらとしても嬉しくなる。
講座の始めに行う「背中を触る」の時、内科医が「この単純に見える動作でも、一人一人違うし、触れた感触も返ってくる言葉も全く違うのは面白いですね」とポツリ。
血の通った人間ならば、は死語かな?
自分では相手に話している「つもり」、相手の話を聴いている「つもり」だ。
つまり、多くの人は「つもり」で会話や関係性だと思い込んでいるという事だ。
それこそ、話の内容こそが大事で、自分に向けられている相手の人の気持ち等は無視だ。
でも、内容は理解できているから「話を聴けている」あるいは、「相手の人に」話している、になるのだ。
内容が理解できる、もしくは理解できるように伝える、というのは、当たり前の事だ。










