「出来る」と「出来ない」の差や違いはどこから生まれるのか
分析や色々な事の説明が行き届いて来ると、それだけで分かった気になる事が多い。
また、言葉を理解できると分かった気になる。
ここで言う、「分かった」は、その事が「出来る事」だ。
だが、現実はそうではなく、単に理解したという事のようだ。
だから、現実と私の使う言葉では、大きな開きがある。
もしくは、全く噛み合っていないのだ。
私自身は、「ま、仕方が無い」と思って諦めている。
諦めるのは、言葉では埋める事の出来ない溝だからだ。
そうなると、「出来る」と「出来ない」の差というか違いは何に現れるかを何時も考える。
というのは、ここを文章化出来れば、人の複雑な構造の一部が垣間見えると思うからだ。
そして、西洋人と日本人の違いも見えるのではないかと思うからだ。
「違い」は、身体に対する認識の事だ。
感情や感覚、生理的な反応や反射まで含めて身体と言うのか、あるいは、運動系だけで身体と言うのか、という様な事だ。
もちろん、それは「私自身」という人間が、行為や行動をしている事実があるからだ。
それに関しては、人種や民族を超え「人類」という括りになる筈だが、昨今ではどうも運動系だけを指して身体と呼んでいる匂いがするからだ。
「武禅」では「声を届ける」を稽古する。
それは発声でも音量でもない。
「気持ち」というこころの働きがあり「届く」という現象が起こるのだが、それは単純な発声や音量を駆使しても成らない。
つまり、自分自身が「届けたい」という気持ちがその時に有るのか無いのかだ。
また、私達は日常で会話をするが、それは確かに目の前の相手に「話したくて」あるいは、気持ちを「伝えたくて」行っているのかどうかだ。
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