技術は気持ちが
6月29日だったか30日だったか、大阪天王寺にある愛染神社の夏祭りだ。
私は、この神社の氏子なので、小学4年生くらいからダンジリに乗って太鼓を叩いていた。
確か、4年生からは神社に奉納しに行っていたと思う。
その時は、公然と学校を休めるからダンジリに乗るのが好きになった。
という大阪の夏祭りはスタートしたが、そろそろ天神祭りがあり最後が住吉大社。
そんな事を思っていると、何だか夏がもう終わる感じになってしまう。
技術は「気持ち」があるから、技術になるのだ。
もちろん、「技術」は、それぞれの仕事や業種、それに日常を一つ切り出しても全てが技術を伴っている。
日常の様々な行為は、自然と身に付いていくので技術だとは認識しにくい。
しかし、例えば食事をするとすると、お茶碗の持ち方からお箸の使い方があり、それは技術だ。
この場合の技術は、一緒に食事をする人を不快にしない為にある。
美しく食すると、それを見る人の気持ちも良くなる。
しかし、昨今は余程家庭がしっかりしていないと、そういった事、つまり、食べ方は躾けられていないし、作法も何もあったものではない。
犬食いがまかり通っているくらいだからだ。
そこには美意識もあり、恥ずかしいという感性もある。
もちろん、それはそのように育まれるもので、最初からあるのではない。
「食べられたらどうだっていいのでは」と育つと、この美意識も恥ずかしいという感性も育たない。
つまり、自分を裏で支える感性の一部が欠損したまま歳を取り死んでいくということだ。
昨日は、上野の喫茶店で原田医師とコーヒーを飲んでいた。
周りを見渡すと、美意識も色々な意味での感性も育っていない幼稚な顔ばかりだった。
「日本は壊れるで」いや「壊れてるやろ」