2023年4月
神田道場?「どうして?」
そういえば、2018年4月7日に東京の道場を神田に持った。「どうして?」 私が大阪に道場を持ったのが、40年程前だ。この道場は、私自身の武道に対する考えを実験する場だった。 やるべき事、考えなければならない事、やった中で […]
今年も1/3が過ぎようとしている
あっという間に4月も半ばになろうとしている。という事は、今年も1/3を過ぎようとしているという事になる。 昨日の日曜日は、レスリング少年が兄弟揃って受講してくれた。兄弟が出場する世界選手権代表選手権や、全日本ジュニア選手 […]
口の中で溶けてしまう美味しさ
不思議なもので、美味しいものは残念なものでもある。
というのは、口の中で溶けてしまうような感覚だから、食べ終わってから「何を食べたのか」が口の中には残っていないからだ。
これは初めての体験だ。
日常では、余程印象的な味のものばかり食べているのだろうと思った。
これは「力の衝突」と良く似ている。
手応えがあるのと、手応えが無いのとの違いだ。
言葉は自分自身の行動や行為を誘導している
例えば、俳句では「季重なり」を嫌うというルールがある。もちろん、単純に駄目だという事ではない。 俳句の事を書きたいのではなく、この「季重なり」と似ているのが、言葉と実際だという話だ。 例えば、怪我をして「痛い」と叫んだ時 […]
言葉が身体を支配するから注意が肝心だ
「力の衝突」を避ける。
「武道」では必須だ。
それは、力負けする可能性を持っているからだ。
ではどうするか?一つに、力の方向を変える。
一つに、衝突した瞬間に「衝突した」という意識を持たない事だ。
実は、それが一番大事な事だ。
以前書いた事があるが、足を石で切った大怪我をした。
その時は「痛い」という意識が身体全体を支配している事に気付いた。
足を切ったのは事実、大怪我も事実。
だが「痛い」というのは単なる言葉だ。
それと、身体への刺激がダブっており、「痛い」に支配されてしまうのだ。
言葉と実際や実体は、全く別物だ
「大事な事は、体感であって理解や知識では無い。理解や知識でまとめると、折角の体感が『それにしか使えない方法』に成り下がってしまう」
これは、「武道」でも「明鏡塾」でも何時も話す事だ。
しかし、人はどうしても自分なりの分析をし、自分なりの理解を選び自分自身の体感とは別物を創り上げたがる。
もちろん、体感と言葉が別物だという認識を持たないからだ。
いうならば、言葉と実体とは全く別物だという認識が無いのだ。
それは、言葉と実際の違いという所に焦点を絞り考えた事が無いからでもある。
例えば「痛い」という言葉一つとっても、その事と実体に起こった刺激とは関係が無い。
自分を変えるのは簡単と難しいと2通りある
難しい挑戦だというのは、考え方を根本から変える必要があるからだ。
この根本が難しいのだ。
それは、ある状況でないと、その考え方は浮かんで来ないので、隅々まで気付こうと思えば相当時間も行動も必要になる。
武道の話になるが、幕末の達人白井亨が、自身の日記で「出来たと思っていても、強そうな相手と立ち会うと、たちまち元の自分が現れ力んでしまう」と書いている。
この「出来たと思っていても」の「思っていても」がある限り、根っこは深いという事なのだ。
もちろん、「力んでしまう」と自己観察出来ているのだから、相当レベルは高いのだがそれでもまだ自分を変えてしまう事は出来ないのだ。
誰しも生きる時間は限られている、筈
体調が悪いのではなく、胸が痛くなる時があった。血圧を毎日計って、と友人の医師に言われ毎日計っている。 しかし、中々習慣化しない。ルーティーンにならないのだ。 2月の中旬から寝起きと寝るまえの2回計る事になっているのだが。 […]
やっぱり「素直」が一番
彼は素直だ。
指示された事を、そのままやろうとする。大方の人も同じなのだが、時間が経つと変わっていく。
自分なりに、自分の癖で癖の持つ価値観を最良として考えて行くのだ。
つまり、指示された事ではなく、自分の価値観に変換してしまうという事だ。
だから「出来ない」のだ。
「出来ない」には色々な理由がある。
もちろん、出来ない人の無意識のレベルだ。
そこを解明するのは難しい。
個々に違うからだ。