言葉は自分自身の行動や行為を誘導している
例えば、俳句では「季重なり」を嫌うというルールがある。
もちろん、単純に駄目だという事ではない。
俳句の事を書きたいのではなく、この「季重なり」と似ているのが、言葉と実際だという話だ。
例えば、怪我をして「痛い」と叫んだ時、その痛いに身体が支配されている。
ここが「季重なり」で、それはそれに気付いた時、支配から解放されるが、厳密には「怪我をした」その瞬間は、言葉によって時間は停止された状態になる。
ボクシングや総合格闘技と呼ばれる競技では、この「痛い」の連続だ。
それを一々意識に上げていたら、それこそ袋叩き状態になってしまう。
その意味で「痛い」の支配から脱した人達なのだ。
一般の人は、そういった「痛い」を職業や競技にしている人がいる事を無視しているから、抵抗なく、つまり、自分自身の甘さを見詰めるのではなく痛いに支配される事に、何の抵抗も無いのだ。
だから、現実社会での「季重なり」は、時間を停止させている事になり、それこそ「今」はどこかに飛んでしまった状態を作っているという事でもあるのだ。
だから「痛い」よりも重要な目的を持っていれば、その「痛い」で、意識共々停止した状態を生み出す事は無いという事だ。
そういった視座を持ち、行為と言葉、体感と言葉を比べてみる必要があるという事だ。
自分自身が、自分の持つ言葉、発する言葉で、自分自身の現実時間を止めている事にもなっているからだ。