秋の武禅
「感動」は判断の産物ではない。
例えば、音楽を聞いて、あるいは映画を見て、本を読んで他、人によって色々な感動状況がある。
これらは決して判断ではなく、直接気持ちというかこころというか、とにかく判断ではないところに触れたから起こる現象だ。
ある言い方をすると、方法論が及ばない領域の事であり、生物の特権ともいえるものだ。
この感動領域と判断領域は、人の内部で混在している。
混在し日常を過ごしているのだ。
その意味で、判断の産物ではないが、判断も間接的には関わっており、その状況に応じて割合が変わるのだ。
10月8,9,10日と「秋の武禅」を開催する。
「武禅」では、その割合のバランスが問われる事になるとも言えるのだ。
例えば、「正面からの向い会い」で、相手から「あなたは私を見ていません」と言われたとする。
その時大方の反応として「えっ、本当?では、どうすれば?」となる筈だ。
ここで、その割合の大半を自分自身が「生きて来た姿勢」を問うのか?単純に「方法としてどうすれば?」と判断に行くのかの二つに分かれる。
生きて来た姿勢を問うた場合、「どうすれば?」は自分の中にある人と向き合う姿勢を思い出し、「そうではない姿勢」を生み出そうとする。
「方法」として判断を選んだ人は、目に力を入れたり、表面的な文字通りの姿勢を変えたりする。
そのそれぞれが「自分自身」なのだ。
もちろん、どちらがどうではない。
ただ、何れの場合も「その自分をどうしたいのか?」だ。